ヌルデ の山 11 月 2 週 (5)
★これまでの人の観察や(感)   池新  
 【1】これまでの人の観察や考えを利用するという必要から、読書はまず必要である。現在の学問にとっても必要である。いな、学問がだんだん進歩して、人間のありさまについても、自然のありさまについても、観察や思想が積み重なれば重なるほど、たくさんの本を読むことが必要になってくる。【2】昆虫の生活を知るには、昆虫そのものを見ることがまずたいせつである。しかし、ファーブルの昆虫記を読むことによって昆虫の生活はよりよくわかる。またわれわれは、すぐれた絵画や音楽や文学に接したとききっと深い感動を受ける。【3】しかし、これまでの人が、それらの絵や音楽や文学について書いた批評や解説を読めば、われわれの感動はより深まる。
 本を読むことには、もっと別の利益がある。それは、いくらわれわれが苦労しても、自分自身では経験することのできない経験、それを教えられることである。
 【4】たとえば、ロビンソン・クルーソーのように、ただひとり離れ小島にただよい着いて、不便なひとりぼっちの生活を送るということは、おたがいの一生のうちに、まずありそうにもないことである。【5】しかし、ロビンソン・クルーソー漂流記という書物を読めば、人間はそうした場合、どういう気持ちになり、どういう行動をするかということがわかる。【6】また、孫悟空のように、雲に乗って空を飛びまわったり、耳の毛を何本かぬいて、ふっとふけば、それがみな自分と同じさるの形になって、そのへんを走りまわるというようなことは、空想の世界だけにあって現実の世界にはないことがらである。【7】しかし、西遊記という書物を読めば、そうした場合に、人間はどんな気持ちになるだろうと、想像することができる。
 小説ばかりではない。歴史の本も同じように役にたつ。われわれは、ジョージ・ワシントンのような地位に立つことは、まずあるまい。【8】また、ナポレオンのような地位に立つことは、いっそうあるまい。しかし、ワシントンの伝記を読めば、誠実に世の中のためにつくそうとした人の喜びと苦しみがわかるし、ナポレオンの伝記を読めば、うぬぼれの過ぎた人間の得意さと悩みがよくわかる。
 【9】なるほど、われわれはロビンソン・クルーソーそのままの境涯になることはまずあるまい。つまり、離れ小島でひとりぼっちの生活を送ることは、まずあるまい。しかし、そうしたときの人間の気持ちを知っておくことは必要である。【0】∵クルーソーは、不便きわまる境涯の中で、その不便にうち勝つために奮闘した。考えてみれば、われわれの住んでいる地球もたくさんの不便をもっている。これも大きな宇宙の中の一つの離れ小島であるかもしれない。クルーソーの離れ島は人間が少なすぎて困り、われわれの地球は人間が多すぎて困っている。困っている点では、われわれもクルーソーと同じなのである。困ったあげく、ときどきは、あの雲に乗って飛びまわれたらと、ふと考えることがないでもない。その点では、われわれも孫悟空と同じである。しかし、それはむなしい空想だとさとると、やはりワシントンのように、じみちに誠実に生きようと思うし、ときにはまた、ふと、ナポレオンのように、からいばりをしたくなったりもする。つまり、ワシントンはわれわれの中にいるのであり、ナポレオンもわれわれの中にいるのである。ひとのことを読んでいるのではない。われわれのことを読んでいるのである。
 書物を読むことにはこのような利益がある。ところでわたしが、これから書物を読もうという若い人たちに勧めたいことが一つある。それはこういうことである。気に入った書物にでくわしたときには、一度読んだだけでよしにせずに、二度三度とくり返して読んでほしい。二度三度とくり返して読みたくなる書物、それはきっとそれだけのよさをもった書物である。
 孔子は、書物を読むことの利益を、初めて説き示した東洋人であるといってよい。ところで、孔子は易を読んで、韋編三絶したということが、その伝記に見えている。韋編というのは、皮のひもという意味であって、当時の書物は、竹の札を一枚ずつ横に並べ、札と札とを皮のひもでくくりあわせてあったが、そのひもが三度も絶ち切れるほど、易の書物を、孔子はくり返しくり返し読んだというのである。
 われわれも、何かそれぞれに好きな書物を、とじ糸が三度も切れるほど愛読したいものである。どの書物がそれであるかは、人々によってちがうであろう。しかし、何かそうした愛読書を、一生のうちにはみつけたいものである。