ヌルデ の山 12 月 4 週 (5)
○いちばん運動会らしいのは、   池新  
 いちばん運動会らしいのは、やはり、かけっこ。このごろは五十メートル競走、八十メートル競走と呼ばれる。六人が一組になって走る。一着から三着までが、それぞれの旗のところへ並ぶ。こういうのは五十年前にわれわれもやったのと同じだからなつかしさもひとしおである。
 来賓席はテントの中にある。かけっこのコースは反対側になるから、スタートからゴールまでが一望の中におさまる。ピストルがなると、小さな足が目もとまらぬ速さで前後する。目がチクチクする。どういう応援をしたらよいのかわからないから、手もちぶさたにながめているより手がない。
 そのうちに、おもしろいことに気がついて、急に力を入れて見るようになる。というのは、スタートとゴールで、順位が大きく変わるということだ。
 スタートで出おくれたこどもが、三、四十メートルのところから頭角をあらわし、六、七十メートルではトップに立ち、そのままゴールへ入る。そういう組がいくつもいくつも出てくる。はじめは偶然かと思っていたが、どうもそうではなさそうである。たいていの組で大なり小なりそういう傾向がみとめられる。スタートからずっとトップで通すというのは例外である。
 途中で伸びてきた子がよい成績をあげる。もし、スタート地点から十メートルくらいのところで優劣をきめれば、ゴールでトップになる子はおそらくおくれた方に入ってしまうに違いない。早いところで、ゴールの順位を占うことがいかに危険であるか、これらのかけっこは、これでもか、これでもかと見せていた。こどもたちにはかけっこの教訓を汲みとることはできまいが、先生たるものは見逃す手はない。
 傍(かたわら)におられる温厚な校長先生に
「かけっこだけではなく、勉強にも、これと似たことがおこっているのではありませんか」と言ったら、校長先生も深く肯(うなず)かれた。
 こどもはどこで力を出すかわからない。スタートの近くで、ああだ、こうだと言ってみてもしかたがない。
 小学校のかけっこはせいぜい百メートル競走である。それでも出∵おくれた子が途中からぐんぐん出てくる。ゴールへトップで入った子がいちばん早いのは、百メートルまでのことであるのも忘れてはならない。ゴールが二百メートルにのびれば、あるいは、ちがう子が出てきてトップに立つかもしらぬ。さらに四百メートル、千五百メートルならまた別のこどもが出てくる。
 人生は七十年余り走りつづける超大マラソンである。学校教育はそのはじめのうちの二十年くらいにしかかかわらない。そこで、この生徒は優秀、とか、劣等だとかきめつけてしまうのは、百メートル競走なのに、スタートから三十メートルくらいのところの順位でものを言っていることになる。
 その運動会のかけっこを見ていても、本当のレースは半分くらいを走ったところから始まるのがわかる。学校の先生は、この点について、用心の上にも用心をしたい。めいめいのペースというものがある。百メートルではビリでも五千メートルならトップに立つということはある。学校ではいっこうにパッとしなかったのが、世の中へ出て、二十年、三十年すると、目ざましい快走を見せているという例はいくらでもある。
 目先はいけない。重ねて言うが、教育は長い目を要する。


(外山滋比古(しげひこ)「空気の教育」)