ライラック の山 4 月 3 週 (5)
★人びとが時間に(感)   池新  
 【1】人びとが時間に追われるようになったのは時計が発明されてからといわれる。考えてみれば太古の昔から、人びとは太陽や星の運行にともなって時が過ぎゆくことを実感していた。しかし、時は自分の上を流れゆくものであって、時間によって自らの行動を律しようとは思わなかったであろう。
 【2】日本社会でも、農業従事者が大部分を占めた時代には、時計といえば、一家にひとつ柱時計があるくらい。日の出とともに田畑に出かけ、日の入りとともに家に帰って休むというのが当たり前の生活パターンだった。
 【3】こう書くと、なんだか随分遠い昔のことのようだが、つい十数年前、小さな農村で高齢者にたいして生活時間調査を試みてうまくいかなかったという話を聞いたことがある。【4】その村では大多数の高齢者は時計を持たず、何時に何をするという観念はない。時間ではなく、明け方とか、昼頃とか、夕方というように、おおまかなくくり方で日常生活が十分間に合うのである。
 【5】いつでもだれもが時計を所持するようになると、ついつい時計をのぞく機会が増え時間を気にするようになる。「時のたつのも忘れて」ということが、しだいに少なくなるのは何とも寂しいことだ。
 【6】人びとが時間に追われるようになったもうひとつの理由は、テレビ画面の隅に時刻が表示されるようになったことである。いつ頃からこうしたことが行われるようになったのかよくわからないが、分刻みで表示される時間に追い立てられて、会社や学校に出かける人が大多数ではなかろうか。
 【7】朝のテレビ番組は時計代わりと言われるようになって久しい。画面に時刻表示がなかった頃は、放映されている番組で大体の時刻を知るのが普通だった。時計代わりのテレビに時刻が表示されるようになり、今や時計そのものになってしまった。【8】私自身、画面に現れる時刻表示をちらちら見ながら、あと五分でとびださないと電車を逃がしてしまうと、毎朝どたばたしているのが実情である。
 今のところ分単位で表示されているから分刻みで行動している。【9】だが、これが秒単位で表示されるようになったら、と思うとぞっとする。秒刻みで行動することになれば、時間に追われるという感覚がいっそう切迫したものになることは確かだ。∵
 このところ、金銭消費から時間消費へと人びとの関心が移ってきているといわれる。【0】バブル紳士たちの凋落ぶりを見ると、金で買える幸せには限界がある。それよりも充実した時を持ちたいと考えるのは、きわめて当然のことだ。
 しかし、残念なことに、時間への関心は、時間にとらわれないことや時間に追いかけられないことではなくて、時間の能率的、効率的な使い方に向かっているような気がする。能率的、効率的に時間を使って、さて空いた時間をどうするかといえば、もうひとつ仕事を入れてしまうのが働き過ぎ日本人の悲しい性(さが)だ。
 能率的、効率的でない時間の使い方のできるチャンスをいかにして確保するかが、私を含めて多くの日本人の課題であろう。だが実情は、南の島でのんびり時計のない生活をしたいと憧れながら、相変わらず時間に追われているのが時間貧乏の私なのである。

(袖井孝子著「時間の話」による)