ルピナス の山 10 月 3 週 (5)
★物ごころのついた(感)   池新  
 【1】物ごころのついた子どもを動物園に連れてゆくと、たいていの子供ははじめて見る動物の姿に素朴な驚きと興味を示す。子供たちの目にまず映るのは、ゾウやキリンやライオンなど珍しい動物の形や色や大きさであろう。【2】それらの動物の生息地の環境や生態、あるいは進化などに興味を持つのは、おそらく中学生以上になってからの話である。
 科学の発展段階は、まさにそれと同じみちすじをたどる。
 【3】ある物事に興味を持ち、それを研究しようとするとき、まず誰しもが着目するのはその形態や振る舞い、すなわち現象論的側面である。星に名前をつけて星座としてまとめたり、岩石を結晶の形や色で仕分けをしたり、動物を哺乳類や魚類や鳥類ごとに分類したりすることがそれに当たる。【4】次いで、もう少し詳しくそれぞれの存在する条件(たとえば場所とか温度とか)でその特徴を記述することを試みる。うまくいけば、その段階において、原理的なことを考えなくともある種の規則性が経験的に見つかる場合もある。【5】科学の歴史上、そのような「経験法則」の例は枚挙にいとまがない。惑星の位置を丹念に追って得られた「ケプラーの法則」などは、その最たるもののひとつと言えよう。
 【6】しかしながら、もしそれぞれの科学が、そのような範囲の中にのみとどまっているのならば、しょせんは記載的な博物学にすぎなくなってしまう。趣味としての博物学ならばそれもよかろう。【7】博識であること自体は決して悪いことではない。だが、より深く自然を理解しようとする意欲を持っている人々にすれば、博物学だけではいかにも物足りないことであろう。【8】よく言われることであるが、天文学や気象学の入門書が、ややもすれば星の名前や雲の形の記述に終始しているため、中学校の地学クラブのレベルを卒業した意欲的な学生の目から見て不満足なものに映るのは、たしかに反省すべきことと思われる。
 【9】したがって、次に必要なことは、ある事物や現象の形態や振る舞いの奥にひそむ原理を追求することであろう。たとえば、台風について考える。【0】記述的な筆法でいけば、台風とは熱帯の海上に発生する低気圧で、円形をしており、中心には眼があって、半径は数百キロ、中心付近の最大風速は云々……ということになろう∵が、もっと物理の目で台風を見るなら、次々と説明さるべき問題点が浮かび上がってくる。「台風はなぜ陸上で発生しないのか」「どうして高気圧性の台風はないのか」「台風のエネルギー源は何か」これらはみな、台風なら台風の、発生・発達する条件や過程つまり「成因」を問うていることにほかならない。さらに一歩進めるなら、「台風に伴って大量に降る雨のもととなる水蒸気はいったいどこから運ばれてきたのか」とか「台風が熱帯で発生して北上し、中緯度で消滅するまでの間に、南と北の空気はどれだけ入れ換わるだろうか」といった疑問もわいてくる。これは、台風のもたらす「作用」を論ずることに相当している。考えてみれば、ハドレーの大循環論は、まず熱帯貿易風や中緯度偏西風といった経験的事実(現象論)から出発し、太陽の熱放射と重力による大規模対流の生成という運動の成因を論じ、さらにそのことが、地球全体の熱のバランスを満たしているという作用論にまで及んでいたのである。ここにこそハドレーの偉大さがあったわけである。
 
 (廣田勇「地球をめぐる風」より)