ルピナス の山 12 月 2 週 (5)
★最近わが国では、あらゆる所で(感)   池新  
 【1】最近わが国では、あらゆる所で「国際化」の必要が唱えられている。金融・流通機構・労働市場は言うに及ばず、教育改革の論議の背後にまでも、「国際化」が日本人の国民的課題であると言わんばかりの言い方がなされている。
 【2】しかし、「国際化」とは一体何だろうか。わけもわからずこの言葉を合言葉のように振り回して、日本を一定の方角へ闇雲に駆り立ててしまう前に、いま冷静に踏み止まって言葉の意味を問い直し、その用法を吟味し、他国との比較を試み、その上で進むべき方向を模索しても遅くはないのではなかろうか。
 【3】世界において「国際化」がスローガンさながらに叫ばれているのは日本だけである。欧米世界に、これをめぐる議論も、自己反省も存在しないし、第一、日本人が使っているのと同じような意味での「国際化」という言葉が存在しないのだ。【4】私が知る限りの欧米人に聞いてみると、彼らはまず第一に、日本語の「国際化」というこの言葉が何を意味するかが分からないと言う。
 思うにその理由は、欧米世界は現実においてすでに「国際化」されているから、今さらそういう言葉を必要とはしていない、という事情があるためだと一応は考えられる。【5】彼らの大半は無意識のうちにそううぬぼれている。欧米で通用してきた尺度は、従来、そのまま世界に通用する尺度でもあったからだ。【6】そして、他方において、日本人が「国際化」の必要をかくも熱心に唱えるのは、日本人自身が今なお自分を閉ざされた特殊な民族と意識し、それを克服しなければならない欠点と判断しているからだろう。
 【7】しかし、果たしてそう単純に考えていてよいのだろうか。世界地図を見渡してみると、「国際化」されていない、閉ざされた国ばかりがやたら目立つ。イスラム、中国、ソ連しかり。米国や欧州だって、完全に「開かれた」国々だと果たして言えるだろうか。【8】自分の暮らし方を民主主義の最高形式と信じ、自分の正義を他国に押しつけ、外国語を学ぼうとさえしない米国国民。近代科学と進歩の理念が自分に発し、地球全体に拡がったことを理由に、久しい間自己中心史観にあぐらをかき、キリスト教を欠いた文明はみな野蛮で、未解放と思っている西欧人。【9】一体彼らがどうして「国際化」∵された、開かれた民族と言えるのであろうか。自分を閉ざされた国だといつも意識している日本人の方が、よほど心理的に開かれていて、外の世界から謙虚に「学ぶ」という伝統的習性を保持しているのではないだろうか。【0】ただ、国際会議が主に英語で行われるなど、世界の運営がこの二、三百年欧米の基準でなされてきたので、(欧米の閉鎖性)ということが今まではどうしても見えにくかったまでなのだ。閉鎖的な自己中心癖はどこの国でも同じで、他国にぬけぬけと「国際化」を要求できるほど公平で、無私の国民など、まずあり得まいと私は信じている。
 それにもかかわらず、日本の、「国際化」が求められる所以は、貿易、軍事、文化交流、等々において世界を支配しているのは、今のところはまだもっぱら欧米の論理であって、日本はそれに自分をある程度合わせない限り、国としての生存を維持できないからにほかなるまい。つまり、「国際化」は必要から、やむを得ず強いられていることであって、決して美しい正義の御旗(みはた)なのではない。国が生き延びていくために、どうしても欧米の論理への適応化を必要とするならそれはそれでいい。いくらでもそういう覚悟でやったら良いと思う。ただ「国際化」が、日本の特殊性を普遍化してくれる絶対善だからそうするのでは断じてない。日本は特殊で、欧米は普遍だなどというのは、過てる迷妄にすぎない。単に実用的必要の見地から、日本はいま外に向けてある程度開かれようとするのであって、したがって、「国際化」という甘美な言葉の使用をむしろやめ、はっきりと「欧米の秩序への適応化」という正確な言葉を使う方が、かえって誤解は避けられる。
 この場合の「誤解」とは日本人の自己誤解である。日本には聖徳太子の昔から、文物を外に求め、己をむなしくして、外の世界に自分を柔軟に合わせるという美点――島国人としての自意識が非常に発達している。この美点と、政治的経済的必要から欧米の作り上げた秩序に一時的に自分を適応させるという現代的課題とを、日本人は「国際化」という同じ一つの言葉の中で、ごちゃ混ぜにして用いていないか。 (西尾幹二「国際化への疑問」)