ルピナス の山 12 月 3 週 (5)
★考えてみると、私の家では(感)   池新  
 【1】考えてみると、私の家では犬も猫も飼った覚えがない。あとになって、大森に引越してから、家の縁の下に野良犬が仔を生んで、鳴き声に気がついた私が、ある日、縁の下深くまでもぐって仔犬をつかまえ、【2】飼ってくれと、母親にせがんだことはあったけれど、七、八匹もいた仔犬たちは、母犬がどこかにつれていってしまうのか、それとも盗まれるのか、つぎつぎと姿を消してしまった。【3】最後の一匹が見えなくなった日は、私は本当に悲しくて、学校から戻ったあと、日がくれるまで近所一帯を一生懸命に探して歩き、疲労と気落ちでしょんぼりして帰宅したあと、夕食もとる気になれず、床(とこ)に入ってからも長いこと寝つかれなかったのを覚えている。【4】奇妙なことに、まだ仔犬に対して特別の親近感を抱くようになるだけの時間もたっていないのに、子供の私には、母親は別だとしても、それまで大切だったはずのほかの多くのものよりもはるかに重大な意味をもつ存在になってしまっていたのだ。【5】どうして、こういうことが、人間の子どもには、可能なのだろうか。私たちのなかの何が、こんな種類の愛情を成立さす力をもっているのだろうか。【6】とにかく、人間の子供にとっての犬や猫といった小動物たちは、母親のつぎにくる、「愛情の学校」ではないだろうか。私たちは、その学校で、人間同士では味わえない、ある種の純粋な愛の相を経験するのではなかろうか。
 【7】姿を消した仔犬のことで、私がいつまでもあんまり悲しがっているものだから、母親が、ある日東京に出かけたついでに、ひとつがいのチャボを買って来てくれた。【8】その土産の小さな金物の籠のままではせますぎるので、大工さんを呼んできて、庭の片隅に小屋をつくってもらった。チャボは犬とちがって、愛撫したり、いっしょにそのへんを駆けまわったりできないので、勝手が少しちがったけれど、それでも私はそれなりに可愛いと思った。【9】こまめに、餌をやったり、小屋を掃除したり、いろいろ世話をした。世話をするのがうれしかった。数日して、巣の中に小さな白い卵のおいてあるのを見た時は、これが本当に私たちの鳥の生んだ卵だとはなかなか信じられなかった。【0】しかし、卵はその翌日も、巣の中にちょこん∵とおさまっていた。昨日の分は今朝学校にいく前、朝食といっしょに食べてしまったのだから、これは新しい卵に相違なかった。こんなに一生懸命生むのなら、食べてしまったら気の毒だな、と思った。とらずにおいといたら、いまに、卵がかえって、ひよっ子が生れて来るのではないか。鶏は一年中卵を抱くわけではないと思うけれど、では少しとらずにおいて様子をみることにしようか、と母はいった。
 その夜私たちが寝ていると、庭で何か物音がして、目がさめた。何かが走ってゆくような音が聞こえた。そのまま、しばらく、きき耳をたてていたが、あたりはただひっそりしていて、何にもきこえない。
 翌朝起きて、雨戸をくり、庭の方をみると、白い羽根が散乱していた。「おかあさん」と叫んだまま、鳥小屋の方にかけ出した。前にはられた金網が破れ、小屋の中はからっぽだった。あとから来た母と二人で、羽根のちらばった方を探しているうち、小笹(こざさ)の茂ったかげに、牝鶏が横になっていた。咽喉をかまれたと見えて、そこから胸にかけて、白い毛が真赤に染っていた。それでも両手に抱きとってみると、気のせいか、眼蓋(まぶた)が動くみたいで、そこから、眼の白いところが少し見える。「まだ生きてるんじゃないか」と、片手で首を持ち上げてみたが表情は全く変らない。彼女の姿は、生きていた時よりむしろ美しいくらいだった。
 昨日まであんなに元気だったのにと思って、手を放したら、首ががくっとたれた。その瞬間、私は、自分が、今、じかに「死」というものにふれたのだと感じた。この経験は、いうまでもなく、私には全くはじめてのものだった。私はそれまで、そんな経験があろうと予測したこともなかった。
 生命とは、何かのことで一瞬にして消えていってしまうものであること、それが消滅すると共に、まるでばばぬきで手もとのカードをひきぬかれでもしたみたいに、私の手もとに残ったもの、これこそ「死」以外の何ものでもないという感じ。そこには恐ろしくて、しかも私の心をいつまでもつかまえて離さない力があった。
 これ以上大事なものはないと信じて大切にしていたものでさえ、∵一瞬にして離れ去り、二度と戻ってくることがない。人生では、そういうことが起こる。そういう一瞬があるのである。それは、あたかも、私たちの油断の時を狙いすませていたかのように突然やってくる。アッと思った時は、もうどうしようもない。失われるのは生命に限らない。一つの幸せ、一つの平穏、一つの恋であることもある。ついさっきまで、人生は私たちに、あんなに快く、優しい眼差しをおくっていたのに、一瞬にして、全く別の相貌が現われる。
 子供の日から何十年かの後、私はブリュッセルの美術館で、この時私の感じたものをはっきり思い出させずにおかない一枚の絵に会った。十六世紀の無名のオランダ派の描いた幼女の半身像で、彼女は両手に死んだ小鳥を堅く握りしめたまま、明らかにどこの誰に向けたらいいのかわからないまま、困惑と驚愕と憤怒でかっと見開いた両眼で、こちらを見すえていた。
 
 (吉田秀和の文章による)