ルピナス2 の山 10 月 4 週 (5)
○人間にはさまざまな人がいて(感)   池新  
 【1】人間にはさまざまな人がいて、その人なりにいろいろなことをやっている。それをかつての子どもたちは毎日毎日、目のあたりにしていたはずだ。そうすると、ああ、あんなこともするのか、こういうこともするのか、こういうことをしたいときにはこうすればいい、ああいうことをするとダメなんだな、といったことを次々に経験する。【2】おかげで非常に多くのことを学習できたはずであるし、それは一人一人の子どもにしてみれば、興味のつきないことでもあったはずだ。
 他人とのつきあい方にしても、決して一様のものではない。この人とは、こうつきあう。あの人とは、別のつきあい方をする。【3】かつてはそれをちゃんと学ぶことができたはずだ。ところが現在は、それがほとんどできなくなってしまった。要するに、家族が家族ごとに独立して生きていくことになったので、そういうふうになってしまったのである。
 【4】集団生活を学ぶために、学校があるじゃないかという人もいるだろう。たしかに、学校に行けば、たくさんの子どもたちがいる。けれども残念ながら、教育の効果をあげるために、今の学校は学級をつくり、そこに同じ年齢の子どもだけを集めるようにしている。【5】だから学校に行くと同じ年の子どもの姿しか目に入らない。もう少し年上になったら、どういうふうになるのだろうということを見る機会はほとんどない。もっと小さい弟、妹ぐらいの子どもたちを見ることによって、少し前まで自分がどんなふうにしていたのかを知ることもない。【6】もう二、三年経ったら自分は、どんなふうにしたらよいのか、ということを学ぶためには、兄さん姉さんが必要である。だが、兄弟がいない子も多い。そうすると、ほかの世代から学習することもできない。
 【7】結果的にどういうことになったかといえば、かつてみんなが自然に学んでいたようなことが、ほとんど学習できなくなってしまったのである。つまり、石器時代の人々がごく自然な形で具体化していた遺伝的プログラムを、文明の進んだ現在ではほとんど具体化できなくなっているということなのだ。【8】これは大変大きな問題ではないだろうか。
 さらに皮肉なことに、昔と違って今はいろいろなものが発明され、物事が複雑になっている。学ばねばならないことが増えているわけだ。その一方でほかの人々を見る機会は、どんどんなくなってきている。【9】ということは、どう生きていくかを学ぶことがどんどん困難になりつつあるということなのである。∵
 また、現在では家族でしつけをしたり、行儀を教えたりするのが当たり前だと思われているが、家庭というのは、先述したようにずれた男とずれた女と、ごく数の少ない子どもしかいない、そういう社会である。【0】その中でいったい何が学べるのか。ずれた男一人から、ほかの男たちがしていることを全部知ることは不可能である。女についても同じだ。
 これが現状なのである。学習の遺伝的プログラムを具体化するためには、きわめて都合の悪い状態だとしか思えないではないか。
 人間はたくさんの人がいる中で育っていくべきものであり、多様な人々から、いろいろなことを学び取っていくようにできている動物なのに、現代はそれができない社会になってしまっている。これは非常に困ったことだというほかはない。

 (日高敏隆()の文章による)