ルピナス2 の山 11 月 2 週 (5)
★木々のきらめき(感)   池新  
 【1】「木々のきらめき」「夕焼けの美しさ」「人のやさしさ」などの出逢いに感じ、驚いたことはすばらしい経験として、書かれ理解された知識と違って、深く心の中に生きつづける知恵である。【2】これらとじかに言葉でなく心の奥底でふれるとき、生きている快感、たのしさ、甘美さに陶酔する。そして何物にもかえがたい生への愛着がわく、今一瞬が永遠の時であり、求めていた本当の自分に出会ったような境地がそこにはある。
 【3】重要なのは「感じ」ている自分に自分の「こと」としての状況が重ねられることである。悲しいとき、楽しいとき、疲れて帰路につくとき、絶望に打ちひしがれたとき、といったその時々の「こと」の中で驚き、感じているわけで、これに「いつ」といった流れの年齢、月日がかかわってくる。【4】紅葉の美しさや花見にしても、月日を重ねるにしたがって、「こと」と「感じ」が連結されて心の深くに生きつづけ、「層」をなしていく。驚いて生きてきたことが重ねられて星霜が生まれ、層となり、木々のきらめきの中に人生の縮図を一瞬にして見ることができる。【5】その一瞬の厚み、深みの連続が「生」を充実させてゆく。
 旅のよさは、日常的な俗世、雑念を取り払った状態で、はじめて出会うキラキラした未知のものにてらし、そこを通り抜け、身を投じて「驚き」を身体化させてくれるところにある。【6】「感じ」の中で生きる契機を多く持つことができる「場」を与えてくれる。心を日常と異なった「狂」とでもいえる状態におきすべてのすばらしさと深く出会うのである。まだ見ぬ自分の中に宿る自分との出会いである。【7】上田秋成が「事触れて狂ひあるく」といった芭蕉や、その姿を見ると人々は笑わずにいられない一休の風狂は「反習俗でありながら、日常生活の根本を返照するように働く。風狂には、反俗的奇行や反抗的行動と裏腹に、烈しい悲哀や笑いの感情が共存するが、それらの感情は新しい自己認識として働いている。」∵【8】「奇行であり、大笑であり、反俗である。と同時に、風狂は奇行でなく、大笑でなく、反俗ではない。その根底に『汝諸人、各各に努力せよ』がなくてはならない。生を清浄なものとしてあらしめようとする意志がなくてはならない。」(岡松和夫「風狂『美の構造』」)と言え、生きることの意味を問いなおしたといえる。
 【9】季節がめぐり循環するように、旅は、建物、山、川、町並み、といったそこに変わらずに「ある」ものや人々とその「時の心」で出会う。次に訪れる時、その時の自分が重ねてよみがえってくる。自らの変容がわかる。【0】土地に街に青春が刻まれる。学生時代を過ごした土地や留学先、旅行先を訪れると青春の息吹がよみがえってくる。人生は一度であるから、「感じ」の豊かさの中で生きなければならない。日記は、土地や山川や木々さらに建物や道具、そして食べ物や人とかかわった「こと」として刻むことができる。再び、その場所や人に出会うとそのときの「感じ」がよみがえってくる。このような日記の書きかたは「驚き」の重ねられた層なのである。さらに書物などの中にもできる。その時々の感想や感激したところを書きしるしたり、読みながら書物を媒介にして自らを見つめる場合、その心を記すことは年代ごとに何回読んでも積み重ねられて残り、その時々が新鮮によみがえってくる。(中略)
 旅で感じた心によって、日常にあっても、驚きを狩猟する旅人であることが人生をどんなにすばらしく充実できるかわかる。一日一日厚みが増し、すべての時がその一瞬に集まり、不朽となる。年齢を重ねるごとに「一日一日が楽しくなる」ことは一回一回の感動を重ねて生きてきた人には必定である。
 旅に出て味わい、旅人として生きることは、外に出て自分を見直し、自らのいる場所を体で確かめることである。自分と異なるものと出会い豊かになり、自然や人間の奥にひそんでいる見えないもの∵を見、自分の「生のかたち」として表現し、創造していかなければならない。

(杉山()明博『造る文化・使う文化』より)