ルピナス2 の山 12 月 3 週 (5)
★挨拶のことばを(感)   池新  
 【1】挨拶のことばを仕込まれた子どもくらい、気持ちの悪いものはない。かれらが「おはようございます」とか「ありがとうございました」とかいうときには、まず、ほんとうの心はこもっていない。ただ、そういわねばならぬと強いられていっているだけだ。【2】当然、紋切り型の口調になるから、なんとも子どもには調和しない。うわべだけの形式的なことばは、虚偽と偽善と責任回避をこととするおとなにはふさわしいが、無邪気で打算とごまかしの下手な子どもには似つかわしくない。【3】その子どもが、おとなの挨拶をするのだから、不気味というほかはない。そのことばを発するときの子どもの心情を思えば、なおさら苦しくなってくる。
 子どもの挨拶は、「おはよう」「ありがとう」で十分だ。【4】顔を合わせたとき、いきなり「おばちゃん」とか「ひろし」とか呼びかけて話しだしてもよいし、別れるときは「じゃね」でも「ばいばい」でもかまわない。要は、そのときどきの相手に対する気持ちがもっともよく伝えられる、その子に合った方法を選ばせることだ。【5】だから、かならずしも、挨拶はことばにならなければならぬ必要はない。わたしの診察室でも、やって来た子どもの大半は、目やしぐさで親愛の情をみせてくれる。ウインクをしたり、首を傾けたり、口をとがらせたり、手を挙げたり、からだ中でずっこけたようすをしたりする。【6】なかには、あかんべえをしたり、いきなり傍らにやってきてつばを引っかけたり、わたしの頭をぽかりとやったりもする。】それが、ひとつも恨みではなく、熱烈なエールであり、優れた挨拶になっているのだ。
 【7】こうした子どもたちもちゃんと挨拶ができるようになるにつれ、しだいに親愛の情が薄れ、距離が遠のいていくように感ぜられる。あるいは、かれらには情は残っているのだが、それをストレートな方法で表現しえなくなってくるのかも知れぬ。【8】いずれにしても、ここにもことばの持つさびしさがある。
 ことばの豊富さは、また、ことばの上だけでの整合性を生む。経験で確かめ立証するよりも、ことばの上でのつじつまを合わせることによって、他人だけでなく自分をも納得させようとする。【9】おとなの大切にしている物をこわすなど、失策をしたときに、「ネコがした」とか「友だちがした」といい、さらに追及されれば「だっ∵て、ネコがいたんだもん」とか「あの子は、この前もこわしたじゃないか」などと弁明する。【0】これが「うそをつく」という悪に決めつけられるのだが、ことばの上での「だれが」や「どうして」という性急な追及が、子どものうそを作りあげてしまうのだ。子どもにとっては、しでかした事実にもともと否定も肯定もない。ただそういう事実が起きただけだ。自分にもまわりにもことばさえなければ、それですむ。ところが、そこに論理性と価値観が強力に立ち現われると、一定度のことばの操作を覚えた子は、その土俵にあがらざるをえぬ。結果は明らかではあるが、懲りずにことばの土俵にはまり込み、ますます事実からの逃避が巧妙となる。(中略)
 ことばは、その抽象性がしっかりした概念を形成し、実体との統合と論理的実証が可能となったとき、はじめて有用性をもつ。子どものことばがそのようになるまでは、あまりに早くことばの世界に入れないのがよい。多くのおとなに囲まれ、ことばにあふれた環境で育つ子どもは不幸である。きょうだいがなく、両親と祖父母、そのうえにおじ、おばやお手伝いさんなどがいて、いつもことばでかまわれていたら、実のない操り人形ができてしまう。おとなの社交の場に、つねに子どもを引き連れるのも、ことばを形式的にしか覚えさせない。いわんや、お話レコードとかテレビのお話教室を聴かせて、上手に上品にしゃべらせようと目論むなどは、ことばの形成の筋道を誤るものだ。
 ことばの形成にとって大切なのは、子ども自身による体験だ。子どもが主体的に、多くの事物や人間と接触し、それらに対する概念をきっちりと持つことが先決だ。そのうえに、ことばの持つ調べやリズム、イントネーションなどの感覚的面白さが加わったとき、子どもはそのことばをわがものにする。この際、ことばを発する人間の情念も、大きくものをいうだろう。心がこもっていなかったり、うそいつわりがあったり、論理をねじまげたりしていれば、それらのことばは、受けつけられない。もし受けつけられれば、方便をこしらえるだけだ。真実を、心をこめて伝えようとするとき、子どもはそのことばを正しく身につける。

(毛利子来「新エミール」より)