ワタスゲ2 の山 6 月 2 週 (5)
★「学力」という幻想は(感)   池新  
 【1】「学力」という幻想は、現実には、貨幣のように機能している。教育の日常的な経験が市場空間のただなかにあることを「学力」という概念ほど端的に表現しているものは、ほかに例がないだろう。私たちは「学力」をまるで「財力」のように意識しているし、まるで貨幣のように機能させている。【2】「学力」は、現実の社会においてなにかを所有する「財力」として機能しており、なにかとなにかを交換する貨幣のような媒体として機能している。「学力」は、文化的教育的な概念というよりも、むしろ市場経済の概念なのである。そのことをもっとリアルに認識するために、貨幣のメタファー(隠喩)で「学力」の特徴を描きだしてみよう。
 【3】まず第一に、「学力」は、貨幣と同じように「評価基準」として作用している。貨幣が、さまざまな生産物や資源やサービスをそれぞれの独自の性質を捨象して一つの尺度で価値づけるように、「学力」も、個性的で多様な経験の結果を特定の尺度で一元的に「値踏み」して価値づける機能をはたしている。【4】これまで「学力」についてさまざまな定義が試みられてきたが、どのような定義を与えたとしても、もっとも本質的で現実的な意味は、この「評価基準」としての意味に求められるだろう。「学力」は、たえず、一人ひとりの個別具体的な学びの経験を普遍的な数字で値踏みしようとするのである。
 【5】第二に「学力」は、貨幣と同様「交換手段」として意識され機能している。貨幣はだれ一人として受け取ることを拒否しない唯一の商品である。その特性によって、貨幣を交換手段とすれば、たとえ需要と供給の関係における欲望の対象が一致しなくても、どんなものでも間接的に交換することを可能にしている。【6】物々交換においては偶然にしか成立しなかった交換の関係が、貨幣の使用によって一挙に拡大し普遍化するのである。「学力」も、それと同じ作用を、労働力の市場や受験の市場においてはたしている。【7】入試や雇用において、採用する者の要求と志願する者の要求は、詳細に検討すればかならずしも一致しないのだが、「学力」を手段とすれ∵ば、合理的な交換を実現することができるのである。
 第三に「学力」は、やはり貨幣と同じように蓄えることができる「貯蔵手段」として機能している。【8】貨幣は、貯蔵それ自体が欲望となる唯一の商品である。この「貯蓄」という欲望は、交換という経済活動をその場かぎりの欲望の充足としてではなく、計画性と合理性を要請する活動へと導き、その経済活動に、空間的な広がりをもたらすだけでなく、時間的な連続性と持続性をもたらしている。【9】それと同様、「学力」も「貯蓄」それ自体が欲望となる唯一の教育の観念である。その幻想は、大半の子どもを呪縛しており、ブラジルの教育改革者パウロ・フレイレが「被抑圧者の教育学」において「銀行預金型の教育」と名づけたように、いつかどこかで役立てるために、ひたすら「貯蓄」する学びが展開されている。【0】
 この「学力」の観念が、教育経験の一回性と鋭く対立していることは明瞭だろう。「学力」という幻想は、たえず、いつの日かのなにかの目的に備えて、学びの「結果」を計画的持続的に「貯蓄」する努力へと、子どもたちを追いこんでいる。さらに、この「学力」を「貯蓄」することへの欲望は、教育を将来への「投資」として位置づける人びとの欲望を醸成する基盤を形成していると言えよう。
 そして、第四に「学力」は、貨幣と同じように、それ自体が「想像的表象」の産物であり、仮想現実の社会を構成している。そこでは、人とモノ、人と人、欲望と対象、欲望と欲望の関係が「貨幣」(あるいは「学力」)を中心として宙づりの状態に置かれ、転倒して作用している。(中略)
 この貨幣と同じことが「学力」においても作用している。それ自体としてはなんの意味もない一枚の紙切れのテストの得点や通知票や内申書などの数値が、「資本」のような幻想を生み出して、その価値以外のすべてを無意味で無価値なものと思わせている。

 (佐藤学「学びの身体技法」による)