ペンペングサ2 の山 3 月 1 週 (5)
★(感)写真が物語化する装置   池新  
 【1】写真が物語化する装置だということは、肖像写真やスナップ写真のばあいでもいえる。かつてひとは自分というもののイメージを、内面の記憶と鏡に映ったイメージとから得ていた。【2】ところで、そもそも自分とはなにものかというアイデンティティーにかかわる自己像もまた、それ自体始まりも終わりももたない意識の持続のなかに把持されたそのつどバラバラの記憶を、ひとつの全体性へと統合することで得られたイメージであり、【3】つまりは記憶の物語である。記憶の物語においてはじめて「わたし」は、他の登場人物から区別された主人公として、そのくっきりとした輪郭をあらわす。
 【4】写真発明以前に、ひとが記憶にない幼年時代の自分のイメージをもつことはなかった。こんにちひとは自分というものを、記憶にはない幼年期の自分をもふくめて、アルバムに残された多様なイメージの総体として理解している。【5】とすれば、肖像写真やスナップ写真を介してひとは、あたらしい自己了解の様式、あたらしい自己像の物語をもつことになったのである。
 写真が可能にする「わたし」の記憶によらない自己像は、いわば外から、他人の目から見た「わたし」の物語である。【6】自分の写真が匿名の視線にさらされるとき、それは知らぬところで知らぬひとによって、「わたし」のもうひとつの物語が語られるという危険を、それゆえアイデンティティーの危機をもたらすだろう。
 【7】写真を介して、他者による物語が押しつけられるという状況は、まずは肖像写真とは似て非なるもの、つまり顔写真という、写真がつくりだしたあたらしいジャンルにおいてあらわになる。そこに刻印された囚人や病人や貧民たちは、もっぱら告発され、追跡され、監視されるものとしてのイメージをみずからに引き受けて生きるほかはない。【8】ポルノ写真のモデルたちも、これを見る匿名の「男」がそこに投影する欲望のファンタジーを、みずからのジェンダーの物語として受けいれる。報道写真においても、飢饉や戦争にあえぐひとびとは、これらの写真をお茶の間で見るものに∵は、ジャーナリズムの標榜するヒューマニズムの物語の登場人物として受けとられるだろう。
 【9】現代では、肖像写真と顔写真との境界はきわめてあいまいなものとなっている。学生証、パスポート、運転免許証、身分証明書はもとより、卒業写真アルバムにならべられたクラスメートの写真や新聞でいつも目にする政治家たちの写真にしても、完全に顔写真のフォーマットにおさまっている。【0】思い出のスナップ写真も、トリミングによって容易に手配写真に転じる。
 最近では、女子高生たちが友達どうし、インスタント・カメラでわけもなく写真を撮りあうことがはやり、また「プリクラ」で撮った写真を街中にはったり、見知らぬひとと交換することが流行している。いずれも、おたがいに直接にむきあうことのない希薄な人間関係と、おおむね満たされてとりたてていうことのない日常のなかで、写真を撮ることによってこれをなんとかくっきりとしたひとつのできごととしてとらえようとし、あるいはイメージの交換・流通によって、ようやく他人とのコミュニケーションを確保しようとしているというべきだろう。そしてこれらの「物語ゲーム」もまた、現代における肖像写真と顔写真のあいだの視線の揺れを反映しているだろう。

(西村清和の文章による)