プラタナス の山 11 月 3 週 (5)
★鯨や象は(感)   池新  
 【1】鯨や象は、人の「知性」とはまったく別種の「知性」を持っているのではないか? という疑問である。
 【2】この疑問は、最初、水族館に捕らえられたオルカ(シャチ)やイルカに芸を教えようとする調教師や医者、心理学者、その手伝いをした音楽家、鯨の脳に興味を持つ大脳生理学者たちの実体験から生まれた。
 【3】彼らが異口同音に言う言葉がある。それは、オルカやイルカは決して、ただ餌がほしいために本能的に芸をしているのではない、ということである。
 彼らは捕らわれの身となった自分の状況を、はっきり認識している、という。【4】そして、その状況を自ら受け入れると決意した時、初めて、自分とコミュニケーションしようとしている人間、さしあたっては調教師を喜ばせるために、そして、自分自身もその状況の下で、精一杯生きることを楽しむために「芸」と呼ばれることを始めるのだ。(中略)
 【5】たとえば、体長七メートルもある巨大なオルカが狭いプールでちっぽけな人間を背ビレにつかまらせたまま猛スピードで泳ぎ、プールの端(はし)にくると、手綱の合図もなにもないのに自ら細心の注意を払って人間が落ちないようにスピードを落としてそのまま人間をプールサイドに立たせてやる。(中略)【6】こんなことが果たして、ムチと飴による人間の強制だけでできるだろうか。ましてオルカは水中にいる七メートルの巨体の持ち主なのだ。
 そこには、人間の強制ではなく、明らかに、オルカ自身の意志と選択が働いている。
 【7】狭いプールに閉じ込められ、本来持っている超高度な能力の何万分の一も使えない苛酷な状況に置かれながらも、自分が「友」として受け入れることを決意した人間を喜ばせ、そして自分も楽しむオルカの「心」があるからこそできることなのだ。
 【8】また、こんな話もある。人間が彼らに何かを教えようとすると、彼らの理解能力は驚くべき速さだそうだけれども、同時に、彼らもまた人間に何かを教えようとする、というのだ。∵
 【9】フロリダの若い学者が、一頭の雌イルカに名前をつけ、それを発音させようと試みた。イルカと人間では声帯が大きく異なるので、なかなかうまくいかなかった。それでも、少しうまくいった時にはその学者は頭を上下にウンウンと振った。【0】二人(一人と一頭か)の間では、その仕草が互いに了解した、という合図だった。何度も繰り返しているうちに、学者は、そのイルカが自分の名とは別のイルカ語のある音節を同時に繰り返し発音するのに気がついた。しかしそれが何を意味するのかはわからなかった。そしてある時、ハタと気づいた。「彼女は私にイルカ語の名前をつけ、それを私に発音せよ、と言っているのではないか」、そう思った彼は、必死でその発音を試みた。
 自分でも少しうまくいったかな、と思った時、なんとその雌イルカはウンウンと頭を振り、とても嬉しそうにプール中をはしゃぎまわったというのだ。
 鯨や象が高度な「知性」を持っていることは、たぶん間違いない事実だ。
 しかし、その「知性」は、科学技術を進歩させてきた人間の「知性」とは大きく違うものだ。人間の「知性」は、自分にとっての外界、大きく言えば自然をコントロールし、意のままに支配しようとする、いわば「攻撃性」の「知性」だ。この「攻撃性」の「知性」をあまりにも進歩させてきた結果として、人間は大量殺戮や環境破壊を起こし、地球全体の生命を危機に陥れている。
 これに対して鯨や象の持つ「知性」は、いわば「受容性」の知性とでも呼べるものだ。彼らは、自然をコントロールしようなどとは一切思わず、その代わり、この自然の持つ無限に多様で複雑な営みを、できるだけ繊細に理解し、それに適応して生きるために、その高度な「知性」を使っている。
 だからこそ彼らは、我々人類よりはるか以前から、あの大きなからだでこの地球に生きながらえてきたのだ。同じ地球に生まれながら、と私は思っている。
 (龍()村仁「地球(ガイア)の知性」による)