ヤマブキ の山 6 月 1 週 (5)
★ノンフィクションの書き手は(感)   池新  
【一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。】
 【1】単調で荒涼な砂漠の国には一神教が生まれると言った人があった。日本のような多彩にして変幻きわまりなき自然をもつ国で八百万(やおよろず)の神々が生まれ崇拝され続けて来たのは当然のことであろう。山も川も木も一つ一つが神であり人でもあるのである。【2】それをあがめそれに従うことによってのみ生活生命が保証されるからである。また一方地形の影響で住民の定住性土着性が決定された結果は至るところの集落に鎮守の社(もり)を建てさせた。これも日本の特色である。
 【3】仏教が遠い土地から移植されてそれが土着し発育し持続したのはやはりその教義の含有するいろいろの因子が日本の風土に適応したためでなければなるまい。思うに仏教の根底にある無常観が日本人のおのずからな自然観と相調和するところのあるのもその一つの因子ではないかと思うのである。【4】鴨長明の方丈記を引用するまでもなく地震や風水の災禍の頻繁でしかも全く予測し難い国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑にしみ渡っているからである。
 【5】日本において科学の発達がおくれた理由はいろいろあるであろうが、一つにはやはり日本人の以上述べきたったような自然観の特異性に連関しているのではないかと思われる。雨のない砂漠の国では天文学は発達しやすいが多雨の国ではそれが妨げられたということも考えられる。【6】前にも述べたように自然の恵みが乏しい代わりに自然の暴威のゆるやかな国では自然を制御しようとする欲望が起こりやすいということも考えられる。全く予測し難い地震台風に鞭打たれつづけている日本人はそれら現象の原因を探究するよりも、それらの災害を軽減し回避する具体的方策の研究にその知恵を傾けたもののように思われる。【7】おそらく日本の自然は西洋流の分析的科学の生まれるためにはあまりに多彩であまりに無常であったかもしれないのである。∵
 【8】現在の意味での科学は存在しなかったとしても祖先から日本人の日常における自然との交渉は今の科学の目から見ても非常に合理的なものであるという事は、たとえば日本人の衣食住について前条で例示したようなものである。その合理性を「発見」し「証明」する役目が将来の科学者に残された仕事の分野ではないかという気もするのである。
 【9】ともかくも日本で分析科学が発達しなかったのはやはり環境の支配によるものであって、日本人の頭脳の低級なためではないということはたしかであろうと思う。その証拠には日本古来の知恵を無視した科学が大恥をかいた例は数えれば数え切れないほどあるのである。【0】

 「日本人の自然観」(寺田寅彦)

 【1】ノンフィクションの書き手は、在るものを映そうとし、フィクションの書き手は、在らしめるために創ろうとする。
 たとえば、先にあげた「『事実』の呪縛を超えるもの」という座談会の中で、小説家である加賀乙彦は、実在の人物をモデルにした小説『錨のない船』を書くという体験に即して、次のように語っている。
 【2】『……最初に収集した事実を一応ふまえて、それほど逸脱したことは書けないけれども、登場人物の心理とか家族の関係とか死んだ様子とかってのは、全部事実と違う完全なフィクションになってきたんですね。その方が実在の来栖良さんという青年の真実に近いのだろうということなんです。(中略)【3】昔、アンドレ・ジイドが「フィクションの方が真実で、ノンフィクションは真実から遠ざかるだけだ」と言ってますけど、僕も同じような考えで、フィクションが多ければ多いほど真実に近づいていくっていう経験を今度しましたね』
 【4】ここには、フィクションの書き手の、創るということの絶大な自信と、あえていえば傲りが、驚くほど率直に表明されている。確かに創るということを認めるなら話は簡単だ。【5】他人というものはついに、理解することはできないのではないか、という苛立ちからも脱(ぬ)け出せ、事実の核に到達できないのではないかという絶望からも解き放たれる。自分の身の丈に合った「真実」とやらにも接近できるだろう。【6】しかし、想像力による事実の改変や細部の補強という方法は、記録というものには限界があるのではないかという問いへの答にはなりえない。記録、ここではノンフィクションだが、それは創らぬという約束の上に成り立っているジャンルの文章なのだ。それをスポーツにおけるルールと考えてもよい。【7】サッカーが手を使わないことによってラグビーと異なる緊張感を生み出すように、ノンフィクションも恣意的に想像力を行使しないということで『在らしめる』という闘いを免除され、『在る』ということによって支えられている力を付与されているのだ。
 【8】ここまできて、ようやくノンフィクションには限界があるのではないかという問いにまとわりついている霧がうっすらとだが晴れ∵ていくように感じられる。つまり、限界があるのは当然ではないか、という地点に辿りつくのである。【9】そこに一定のルールがある以上、可能なことには限りがある。全能の文章のスタイルといったものを求めることが無理なのだ。とすれば、最も大事なことは、ノンフィクションには何が可能で何が不可能かの境界を見極めることのはずである。【0】
 ノンフィクションのライターにできることは、事実の断片を収集することでしかない。加賀乙彦のいう「真実」とやらに到達することは不可能であり、事実の核といったものを掘り出すこともできない。だが、それでどうしていけないことがあろう。断片と断片のあいだはついに埋まらない。わかることもあり、わからないこともある。それをそのまま提出してどうしていけないか。いや、むしろその方が、『在る』ものとしての事実の質感や大きさをくっきりと伝えることになるのではないか。事実の断片を断片として提出する。しかし、その断片の選び方、提出の仕方に、書き手の「人間」が混じり合ってしまわないか、という問いかけがあった。それに対しても、その通りと認めることでしか答は見つからない。「人間」の混入は不可避である。それはこの世に万人が認める唯一無二の絶対的な事実があるのではなく、個人にとっての事実しかないという立場を承認することでもある。つまり、ノンフィクションとは、事実の断片による、事実に関するひとつの仮説にすぎないのだ。

(沢木耕太郎(こうたろう)の文章による)