ビワ の山 8 月 3 週 (5)
★数年前、私は西アフリカの(感)   池新  
 【1】数年前、私は西アフリカのナイジェリアの東北部べエヌ河の河畔を一人の土地の盲人と二人で神話・昔話を採取して歩いていた。四十すぎの私と殆ど同じ年と考えられる人であった。この盲人には実に色々な事を教わった。【2】そのうちの一つが次のようなことである。
 或(あ)る時、彼の手を引いて山道を歩いている時に、彼は「目あきのおごり」というのがあるのですよ、と語り始めた。
 目あきは、何でも見えるために、何でも解ると思っている。【3】ところが目あきが見ているのは眼の前に見えるものばかりでしょう。でも目あきが見ているものの中で目あきが記憶にとどめるのは、その百万分の一にすぎない筈ですよ。【4】そうでしょう、草の一本、一本、石ころのすべてを目あきは記憶しますか。しないでしょう。
 私たち盲人は、一日単位では、目あきと較べるとたしかに何も見てないに等しい。【5】しかし、明日・明後日と先に行くにつれて、私たちの方がよく見えるということに目あきは余り気がついていませんね。私たちはたしかに眼は見えません。しかしその代償として、心の眼を与えられています。【6】心の眼は耳・身体・足・鼻・その他諸々の器官を「見る」ために動員するのです。それに、これらすべてを融合して、「遠く」をみるために、周りのものに対する「優しさ」が加わらなければなりません。【7】暗闇は私達盲人にとって絶望的な試練を与えますが、それは又無限の優しさを曳き出して来ることの出来る源泉です。目あきの人にはこうした暗闇を凝視することは出来ません。【8】私たちは、「心の眼」を通して暗闇の彼方から立ち現われる物を見ているのです。
 この盲人は、昔話の絶妙な語り手であった。彼の語る昔話は、人々の魂をゆさぶる響きを帯びていた。【9】彼が語る時、昔話は、他の人間が語るのと同じ言葉で語られていても、それらの言葉は、周りの光景と融け合い、そうした事物の根に達し、世界を全く見なれない新しいものに変える力を持っていた。
 【0】森も原野も、動物達も樹々も、すべて、彼の言葉に吸い寄せら∵れて、彼が語る間の時間に融け込むかのようであった。彼が得意とした昔話は、気ままに生きることを信条としたために王様の座からずり落ちた滑稽な者の話であった。この男は、その気ままな境遇を利用して、天にも、水中にも、地上至るところ旅をして歩くというのがこのシリーズ連作の昔話の骨子である。
 彼と生活を共にしているうちに、私にも何か見えて来るような気がして来た。神話というのは、これだなという実感が湧いて来た。それは神話学概論をいく冊読んでも書かれていない事柄であった。私達の生活の中で私達が、人間中心に、損得づくで使っている言葉も一見、荒唐無稽な筋の中に投げ込まれると、効用性を失ってしまう。損得づくで使っている言葉や、話の筋は、私達を他人や、私達をとりまく他の事物と表面的には結びつけるけれども、深い層でのつながりを断ち切ってしまう。(中略)
 いうまでもなく、生態系には、荒唐無稽なこと、ばかばかしいこと、無駄なことが満ち満ちている。それは神話・昔話と同じことである。しかしながら、ここ十数年の間に生態学者や、動物行動学者は、そうした一見無秩序な関係の中には、調和して生きるために、自分の持っている原則を大胆に変える生物の叡知が働いていることを見つけ出した。それは、人間が自らの文化の中に秘め匿(かく)して維持しつづけて来た、神話的「優しさ」とも言うべきものに見合う筈の生き方である。
 自然との調和こそ、我々人類が生存し続けるために避けることの出来ない原則になった。

(山ロ昌男「仕掛けとしての文化」)