ビワ の山 9 月 3 週 (5)
★文化ということを(感)   池新  
 【1】文化ということを、ここでは日常の生活にあらわれている面から考えていって、ヨーロッパと日本のそれを比べてみると、最初に思いうかぶのは、次のことである。【2】私が一年余ドイツに滞在して受けた印象からいうと、先方の長所も短所も、一般の人々における市民意識の堅固さに関係するのであった。【3】今世紀にいたって崩壊したといわれる市民生活、ないし市民意識は、むかしにくらべればすき間風だらけなのであろうが、外来者の私たちにとっては、それが今なおあらゆる人の生活の強い背骨をなしていることにおどろかされるのである。【4】職業、地位、階級等の別なしに、人間は市民としてたがいに対等の存在である。で、各人はそういうものとして自己を把握しているから、個人としてのそのありかたが独立的で、強くたのもしい。そして社会はこういう人たちの寄り合い、約束の場である。
 【5】日本の生活意識においては、このことは、一部の人たちに概念的にうけとられているほかは、いまなお全く欠けているのである。それは敗戦後十年間のデモクラシーの談義だけで、樹立されうるようなやさしいものではない。【6】で、これをどういう方向へもっていくようにしたらいいかということになれば、方法や手順においては、種々の考え方があろうが、到達点としては、すべてが強い対等の人格となることが目標だと、私はいまなお考えるのである。【7】このことをないがしろにしては、社会は外観的に整備されても、内実は浮動をくりかえすだけだと思う。この目標は、人間生活がいかに集団的になっても、不動でなければなるまい。【8】このことが、こんにち、また将来の日本の文化を考えるときの筆者の第一のたてまえである。
 前述のヨーロッパの長所は、同時に短所をともなっている。つよい市民意識は、非常にしばしば、せまくるしい、自己満足的な、そして利己的なにおいを発散させる。【9】ひとの生活に無用に干渉しないかわりに、自分さえよければいいという態度が、ほのみえる。社会において一個の存在として通るということだけに最終の目的があるかのように、外的な立派さのかげに、空虚がのぞいている。【0】少し飛躍的に言えば、それは愛にとぼしい生活である。近代、現代の詩人や思想家の多くは、この点につまずきを感じて、痛烈な反抗の声をあげたのである。このことは、私がとくにドイツに多く滞在∵したから、感じたのかもしれない。中央集権的国家形態を十九世紀の後年にいたるまで欠いて、その後も、地方主義、割拠主義を特徴としてきたこの国のありかたが、各人に、せまい殻のなかの安穏着実な生活を立てることを第一義とさせ、これが、ドイツは市民的なヨーロッパのなかでも、もっとも市民的な国だと、よくいわれる主な原因になったのかもしれない。だが、私の感じたところでは、程度の差こそあれ、また殻の大小の違いはあれ、今もヨーロッパはおしなべてどこも市民的なのであって、したがって、一般に、何ほどか、せまくるしくて、自己満足的で、愛にとぼしいのである。
 現代の日本人が、やがて自立的な個人のありかたという彼らの文化の長所を身につけるときがあるにせよ、この短所までもいっしょに取り入れるのではつまらない。それでは創造の活力は湧きあがってこない。しかし長所と短所を分離して取り入れるということは、おそらく不可能ではないか。それについて私の予感するところはこうである。ヨーロッパ的市民性を模型として、個人の強力な自己把握をめざすなら、おそらく前述した長所・短所の分離的摂取は不可能である。しかしそれではいけない。人格の確立ということは、他人の模型を追うのでなく、現代日本人が、現在における自分自身の生活の基盤から、自力をもって追求していかねばならない。とすれば、これは、たいへんな仕事である。統制的な押売的な手段は、いかなるものでも、事柄を根本的にこわす。すべては、日本人自身の内部からの力が湧いて、なされねばならぬのである。