ビワ の山 9 月 4 週 (5)
○テレビやラジオに   池新  
 テレビやラジオにいわゆる教養番組が多くなった。また、日本や諸外国の文物風土を紹介し、現状を分析批判するような現地報告の番組も多くなった。それらはそれぞれにおもしろい。おもしろい以上に、ときにわれわれに疑問をなげかけてくる。ところで残念ながら電波ジャーナリズムというものは、疑問を自分で考えてみたいから、一寸(ちょっと)待ってくれ、といっても待ってくれない。電波の機械的なテンポをもってさっさと歩み去ってしまう。われわれは考えることはやめて、眼や耳でついてゆかなければ前後の脈絡を失ってしまう。
 十五分か三十分の番組が終わると、とっさにとんでもないコマーシャルが聞こえてきたり、何の関係もない音楽になったりさては白菜、トマトの百グラム当たりの今日の値段になったり、美容体操になったりする。見るともなく、聞くともなくそれらを見、聞きしているうちに、さきに疑問に思い、考えてみたいと思ったことも、どこかに消えて、あとかたもなくなってしまう。
 このことの人間に及ぼす影響はかなり大きい。現代において、人間の生活、生涯が断片化し、瞬間化し、昨日と今日、今年と来年との間の精神のつながりが稀薄になったことが言われている。これにはいろいろな原因があろう。たとえば仕事が分業化し、専門化し、機械化して、人間の経験、過去の蓄積を不用にするという傾向が強まってきているということもその原因のひとつであろう。さらにいえば、その人の個性を必要としないのみか、反(かえ)って個性を邪魔者とするような職場、仕事が多くなってきた。機械の番人、また追随者になることが要求せられる、ということもある。経験も個性もいらないということは、人間から誰々でなければならぬということを奪い、アノニムな存在、即ち誰でもかまわない誰かですむということである。そういうことを長年にわたってやっておれば、人間の断片化は当然に起こってくるだろう。
 精巧な機械や自動機械が多くなれば、人間の労働時間を少なくしても、生産を増加することができるだろう。生産の合理化は、今日ではそういう方向ですすめられている。一日の労働時間が六時間になり、週五日制になるということも起こってくるだろう。当然に閑、休暇が多くなる。さてそのできた閑な時間をラジオやテレビを∵聞き、見ることにあてるとすれば、それらは既にいったような性格のものだから、前後の持続しない断片化に拍車をかけるという結果になる。
 右のことは、現代という時代の必然的な傾向だから、ある意味ではやむをえないことであるが、さてそれでいいのかと考えてみればそれでは困るのである。やむをえないとしても、いいとはいえないのである。ここに問題がある。
 人間が断片化し、瞬間瞬間に生存する存在に化するということは、自己自身に対して責任を負わなくなるということである。また自分自身の一生、生涯というものをもたず、年毎(としごと)に深まる年輪をもたないということである。夫婦、親子、師弟、友人の間柄が、そのときどきの都合による結びつきとなって、持続する愛情も尊敬もなくなるということである。これは人間にして人間らしくない生き方、非行人間だと私は思う。過去を負いながら未来を思い、現在において現在を超えたもの、即ち人生や自分の存在の意味を思い、その意味を認知することによろこびを感じ、また現在の自己に不満を感じるということが、人間を他の動物から区別している特質である。

(唐木順三「詩とデカダンス」)