国語読解(こくごどっかい)クラス
 体験学習用(たいけんがくしゅうよう)課題(かだい)フォルダ ピラカンサ

 国語(こくご)読解(どっかい)クラスで勉強(べんきょう)することは、
1.読書(どくしょ)紹介(しょうかい)
2.問題(もんだい)集(しゅう)読書(どくしょ)
3.読解(どっかい)検定(けんてい)の解説(かいせつ)(小5()以上(いじょう))
です。

 詳しい(くわ  )勉強(べんきょう)の仕方(しかた)は、中(なか)をごらんください。

※受講(じゅこう)される場合(ばあい)は、問題(もんだい)集(しゅう)読書(どくしょ)の教材(きょうざい)をご注文(ちゅうもん)ください。
 

読書(どくしょ)紹介(しょうかい)
 毎日(まいにち)、本(ほん)を10ページ以上(いじょう)読み(よ )ましょう。読む(よ )本(ほん)は、字(じ)のスペースが絵(え)のスペースよりも大きい(おお  )ものであれば何(なに)でもかまいません。
 その週(しゅう)に読ん(よ )だ本(ほん)を1冊(さつ)選び(えら )、みんなに紹介(しょうかい)します。紹介(しょうかい)の時間(じかん)は2分(ふん)以内(いない)ですから、「いちばん面白かっ(おもしろ  )たところ」などを中心(ちゅうしん)に紹介(しょうかい)してください。
 低(てい)学年(がくねん)の生徒(せいと)で、口頭(こうとう)の紹介(しょうかい)が難しい(むずか  )場合(ばあい)は、その本(ほん)の表紙(ひょうし)や挿絵(さしえ)を見せる(み  )だけで結構(けっこう)です。



















 

問題(もんだい)集(しゅう)読書(どくしょ)
 問題(もんだい)集(しゅう)の問題(もんだい)文(ぶん)を毎日(まいにち)5ページ以上(いじょう)音読(おんどく)しましょう。問題(もんだい)はやる必要(ひつよう)はありません。問題(もんだい)文(ぶん)だけの音読(おんどく)なので、正味(しょうみ)2ページ分(ぶん)程度(ていど)です。
 読み(よ )ながら、自分(じぶん)なりによくわかったところや印象(いんしょう)に残っ(のこ )たところに傍線(ぼうせん)を引い(ひ )ておきましょう。
 授業(じゅぎょう)のある日(ひ)には、学習(がくしゅう)の記録(きろく)に、その日(ひ)に読み(よ )始める(はじ  )ページを記録(きろく)しておきましょう。その記録(きろく)をもとに、先生(せんせい)が問題(もんだい)文(ぶん)の内容(ないよう)について質問(しつもん)をします。
 問題(もんだい)集(しゅう)読書(どくしょ)は、1冊(さつ)を最後(さいご)まで読み(よ )終え(お )たらまた最初(さいしょ)に戻っ(もど )て読み(よ )、1冊(さつ)を5回(かい)以上(いじょう)繰り返し(く かえ )て読む(よ )ようにしましょう。
 保護(ほご)者(しゃ)の方(かた)は、お子様( こさま)が音読(おんどく)をしているときは、読み方(よ かた)の注意(ちゅうい)はせずに、いつも褒める(ほ  )だけにしてください。


















▼問題集読書1ページ(受講を継続される場合は、問題集を購入してください。)
 
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読解(どっかい)検定(けんてい)(読解(どっかい)マラソン集(しゅう))の解説(かいせつ)
 読解(どっかい)検定(けんてい)の問題(もんだい)文(ぶん)を読み(よ )、全部(ぜんぶ)で8問(もん)あるうちの1問(もん)を選び(えら )、その問題(もんだい)の正解(せいかい)の解説(かいせつ)を書き(か )発表(はっぴょう)します。
 これは、小学(しょうがく)5年生(ねんせい)以上(いじょう)の課題(かだい)です。小学(しょうがく)4年生(ねんせい)以下(いか)の生徒(せいと)は、できる人(ひと)だけやってください。
 生徒(せいと)本人(ほんにん)だけで解説(かいせつ)が書け(か )ない場合(ばあい)は、保護(ほご)者(しゃ)の方(かた)が協力(きょうりょく)してください。
 解説(かいせつ)は、そのクラスの発表(はっぴょう)室(しつ)にアップロードします。解説(かいせつ)は、ノートに書い(か )たものの画像(がぞう)でも、テキストで入力(にゅうりょく)したものでもどちらでも結構(けっこう)です。


●解説(かいせつ)の書き方(か かた)の例(れい)(この例(れい)は小5の課題(かだい)をもとにしたものです。)

 9.1週(しゅう)の問題(もんだい)文(ぶん)では、「世界(せかい)人口(じんこう)の半数(はんすう)がエネルギーをまきや炭(すみ)に頼っ(たよ )ています」と書い(か )てあるが、選択肢(せんたくし)Aでは、「世界(せかい)人口(じんこう)の大(だい)部分(ぶぶん)が、エネルギーを石油(せきゆ)に頼っ(たよ )ている」と書い(か )てあるので×。
 同じく(おな  )、問題(もんだい)文(ぶん)では、「森林(しんりん)の破壊(はかい)でキャッチャーがいなくなると、雨(あめ)が大幅(おおはば)に減っ(へ )て気候(きこう)がいっぺんに乾燥(かんそう)してしまいます」と書い(か )てあるが、Bでは、「森林(しんりん)と大気(たいき)の間(あいだ)で水(みず)のキャッチボールができなくなると、大雨(おおあめ)が降り(ふ )やすくなる」と書い(か )てあるので×。

(解説(かいせつ)は口頭(こうとう)で発表(はっぴょう)するので、解説(かいせつ)の文章(ぶんしょう)は、もっと簡単(かんたん)に書い(か )てもいいです。)













 
a 読解マラソン集 9番 岩淵悦太郎さんの調査によりますと wapi3
 岩淵(いわぶち)悦太郎(えつたろう)さんの調査によりますと、一〇〇〇の単語を覚えると、英語では八〇%理解でき、フランス語では八三%分かる。それなのに、日本語では六〇%しか分からない。つまり、日本語は語彙(ごい)が多いので、一〇〇〇語くらい覚えたのでは、六割しか理解できないのです。日本語の語彙(ごい)は、ともかく豊かです。
 でも、その反面、こんな問題も起きてきます。たとえば、漢語を造りすぎて同音異義語がたくさん出来てしまったのです。耳で聞いただけでは分からないことが多い。
 「こうえん」と聞くと、あなたはどんな漢字を思い浮かべ(おも う  )ますか? たちどころに、「講演」「公演」「口演」「好演」「後援()」「公園」「高遠」など数種類の同音異義語を思い浮かべ(おも う  )たに違い(ちが )ありません。文脈によって、どの「こうえん」か分かることもありますが、特定できないこともあります。
 「先生は日曜日にはコウエンに出かける」と言われると、先生と呼ばれる人はさまざまなジャンルにいますから、「講演」「公演」「口演」「公園」の四種類が候補になってしまいます。
 これからの社会は、あらゆる人がメディアを通じて話し言葉で説明していく機会が増えていく時代です。話した言葉を機械に聞き取らせて、そのまま書物にすることも増えてきています。話し言葉が主役になる時代の到来(とうらい)を考えると、同音異義語の整理は急務です。
 また、近年増えつづけている外来語をどうするかという問題もあります。最近、国立国語研究所が、こんな発表をしました。一九五六年には、外来語が日本語に占める(し  )割合は、一割未満であったのに、一九九四年には、外来語が日本語の三割強を占める(し  )にいたったというのです。外国語をカタカナ書きしただけで、外来語になりきっていないものも多いので、カタカナ語と呼ぶこともあります。つまり、カタカナ語の氾濫(はんらん)です。
 一〇数年前といえば、国際化、グローバル化が叫ば(さけ )れていた頃(ころ)です。インターネットの普及(ふきゅう)も目覚しく、カタカナ語は増加の一途(いっと)を辿っ(たど )ています。明治時代の新漢語ブームで、漢語が著しく増えたのに似ています。そして、意味も分からずに新しさゆえに使ってみるという傾向(けいこう)も似ています。こころみに、次に七つのカタカナ語をあ
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げてみます。いくつ意味がしっかりと把握(はあく)できたでしょうか。
  アイデンティティー  イノベーション  エンパワーメント
  サーベイランス  ボーダーレス  モラルハザード  レシピエント
 どれも聞いたことはあります。でも、意味が正確にとらえられているかと言われると、おぼつかない。こうした状況(じょうきょう)に危機感をおぼえた国立国語研究所は、意味の分かる従来語での「言い換え(い か )案」を提案しています。それによりますと、順次、「自己認識」「技術革新」「能力開化」「調査監視(かんし)」「脱(だつ)境界」「倫理(りんり)崩壊(ほうかい)」「移植患者(かんじゃ)」となります。たしかに、カタカナ語よりははるかに意味が分かります。
 さて、これらのカタカナ語の扱い(あつか )をどうしたらいいのでしょうか? 分かりやすさの点から言えば、従来語で言い換え(い か )た方が数段優れています。でも、問題があるのです。言い換え(い か )案をみてください。ほとんど漢語です。ただでさえ多い漢語をふたたび増やし、同音異義語の問題を大きくしてしまうのはどうでしょうか。耳で聞いただけですばやく理解しなければならない場面が増えていく社会になることを考えると、問題なのです。
 カタカナ語のままにしておいて、意味の定着を待つという方法は、いかがでしょうか。意味の定着に、言い換え(い か )案は効力を発揮します。ははん、レシピエントというのは、「移植患者(かんじゃ)」のことだなと、共通理解を促進(そくしん)してくれます。
 明治時代の西洋語を漢語に翻訳(ほんやく)して受け入れていったのは、中国文化の浸透(しんとう)していた時代にマッチした方法でした。でも、現在多くの日本人に浸透(しんとう)しているのはアメリカ文化です。もはや、漢語の翻訳(ほんやく)が力を失いつつある時代なのです。だとすると、カタカナ語のまま、意味の定着するのを待って使っていくという方法も、意外に良いと思えます。

(山口仲美氏の文章に基づく)
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a 読解マラソン集 10番 氏の『沈黙』は、キリシタン禁制時代の日本に wapi3
 氏の『沈黙(ちんもく)』は、キリシタン禁制時代の日本に、ポルトガルから二人の若い司祭が潜入(せんにゅう)を企てる(くわだ  )ところから始まる。島原の乱が鎮圧(ちんあつ)されたころである。かれらは苦心惨憺(さんたん)のすえ、取り締り(と しま )の目をかいくぐって上陸し、日本人信徒との連絡(れんらく)をつける。が、まもなく捕え(とら )られ、苛酷(かこく)な拷問(ごうもん)のすえ棄()教に追いこまれていく。
 その主人公の一人がロドリゴで、踏絵(ふみえ)を踏む(ふ )よう役人に説得される。外国の司祭が転べば、信徒たちも転ぶからだ。転ぶべきか、それを拒否(きょひ)すべきか、思い惑い(まど )苦しみつづけるかれの心の奥(おく)に、「神よ、あなたはなぜ黙っ(だま )ているのです」という黒い渦(うず)のような言葉が噴き(ふ )あげてくる。救いの手をさしのべてくれない神への呪い(のろ )の叫び(さけ )だ。
 そのとき、二〇年前にすでに転んでいた先輩(せんぱい)司祭のフェレイラがかれの前にあらわれて、いう。――お前の目の前にいるのは布教に敗北した老宣教師の姿だ。知ったことはただ、この国にはお前や私たちの宗教は根を下ろさぬということだけだ。この国は沼地(ぬまち)だ。どんな苗(なえ)もその沼地(ぬまち)に植えられれば、根が腐り(くさ )始める……。
 それをきいて怒り(いか )の声をあげるロドリゴに、今は沢野(さわの)忠庵(ちゅうあん)という日本名をもつフェレイラは淡々と(たんたん )話をつづける。
 「この国の者たちがあの頃(ころ)信じたものは我々の神ではない。彼等(かれら)の神々だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教(きりすときょう)徒になったと思いこんでいた。……聖ザビエル師が教えられたデウスという言葉も日本人たちは勝手に大日とよぶ信仰(しんこう)に変えていたのだ。……基督教(きりすときょう)の神は日本人の心情のなかで、いつか神としての実体を失っていった。……日本人は人間とは全く隔絶(かくぜつ)した神を考える能力をもっていない。……日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない。」
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 このフェレイラの言葉は作者の遠藤(えんどう)さんの気持でもあったのだろう。
 やがて、そのロドリゴの前に踏絵(ふみえ)が置かれるときがくる。細い腕(うで)をひろげ、茨(いばら)の冠(かんむり)をかぶったキリストの醜い(みにく )顔がそこにあった。
 さあ、勇気をだして。踏め(ふ )ば、あの信者たちも助かる、とフェレイラがいう。ロドリゴは足を上げた。するとそのとき、あの人がかれに向かっていった。
 「踏む(ふ )がいい。私はお前たちに踏ま(ふ )れるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架(じゅうじか)を背負ったのだ」
 キリストはついに沈黙(ちんもく)を破ったのである。痛みと苦しみを分かち合うキリストが蘇り(よみがえ )、踏む(ふ )がいいという。そのキリストの背後に、あの厳格な怒れる(おこ  )神の姿はもはやない。慈愛(じあい)の眼差しを注ぐ母のような許しの神の影(かげ)が宿っている。
 神の愛というより、むしろ仏の慈悲(じひ)の輝き(かがや )が立ち昇っ(のぼ )てくるような錯覚(さっかく)さえおぼえる。ロドリゴは、人間とは隔絶(かくぜつ)しているはずの神のイメージの上に、母親のような人間の面影(おもかげ)を追い求めているようにさえみえるのである。このロドリゴの変貌(へんぼう)はまた、沼地(ぬまち)のような日本の宗教風土に生まれ育った作者の、その深い心の底を映しだす鏡でもあるのではないだろうか。

(山折哲雄(てつお)『近代日本人の美意識』による。文章を一部改変した。)
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a 読解マラソン集 11番 フランス大革命のあと wapi3
 フランス大革命のあと、政治は宗教とははっきりと独立したものとなってくる。今や国民国家からの給与(きゅうよ)によって生活するようになった大部分の科学者たちは、教会に義理立てする必要もなくなったし、異端(いたん)として迫害(はくがい)される心配もなくなった。もちろん科学は自然についての研究であり、政治により特定の研究が禁止されるという恐れ(おそ )もなかった。彼ら(かれ )の目的はより立派な研究をするだけとなった。立派な研究をすれば、科学者としての地位と名誉(めいよ)が約束される。
 問題は何をもって立派というかである。どんなに面白そうなものでも、追試ができないようなものはダメである。公共性が確保できないからである。この公共性の確保ならびにそのための方法は、科学にとって極めて重要であり、それゆえにこそ、科学は世界規模の普遍(ふへん)装置として機能するようになるのだが、それはもう少し後の話である。
 追試ができてしかも世界初の技術でさらに膨大(ぼうだい)な富を生み出すもの。技術ということに限れば、立派とはかくのごときものをいう。しかし、制度化された科学ではそれだけではすまなくなってきたのである。それは理論が重視されるようになったからである。新しい事実の発見と並んで、新しい理論を提唱することに大きな価値が置かれるようになった。理論とは切れ切れの現象を単一の体系の下でまとめる鋭意(えいい)である。従ってなるべく少ない原理でなるべく沢山(たくさん)の現象を説明できるほどよい理論ということになる。
 錬金術(れんきんじゅつ)のようなオカルトが、理論と技術を結びつけようとする指向を有していたことを想い出してほしい。オカルトの嫡子(ちゃくし)としての科学もまた、技術や実験結果を、ある理論体系の下で説明したいとの強い欲求を持つ。それはある意味では、伝統的な大学の知識集団から、一段低く見られていた新興の科学者たちの劣等(れっとう)感の裏返しという面も持っていたろう。技術や実験結果を理論で武装することができれば、理論(知識)しかない伝統的な大学の知識層よりも優位に立つことができる。理論化をより強く指向した理学が工学よりも早く、伝統的な大学の学部として受け入れられたのはゆえなしとしないのである。
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 さて、科学にとって、理論の公共性とは何か。それは理論から極力、個人の特殊(とくしゅ)性を抜く(ぬ )ということに尽きる(つ  )。それは主観を排し(はい )、客観を重視するということだ。科学は客観というやり方で公共性を担保したのである。現在の我々から見ると、これはごく当たり前のように見えるが、歴史的に見れば、このようなやり方で公共性を担保したのは、十九世紀の制度化された科学をもって嚆矢(こうし)とする。
 宗教は集団による信憑(しんぴょう)という形でしか公共性を担保できない。文化や伝統は習慣という形でしか公共性を担保できない。政治は権力による強制か国民による信任という形でしか公共性を担保できない。ひとり科学だけが、人間の想念や願望や恐れ(おそ )や思い込み(おも こ )から自由な、客観という基準により公共性を担保したのである。
 十六、七世紀の第一の科学革命の時の研究でも、もちろん、現在の我々から見て、どの研究が客観的に正しく、どの研究が間違っ(まちが )ているかを判断することはできる。しかし、判断基準となる客観は当時の科学者集団(本当はオカルト集団)によって前提とされていたわけではない。それに対し、十九世紀に制度化されて以後の科学者集団は、客観の重要性を前提としているのである。
 科学における客観は十七世紀のデカルトから発した、ということになっている。デカルトは心身二元論者ではなく、実は一元論者だったという説もあるが、公式的には心身二元論(物心二元論)の確立者である。物は身体も含め(ふく )延長(デカルト的な意味での「延長」とは、空間の一定部分を占有(せんゆう)していることをいう)を本質とし、心は非延長的な思考を本質とするから、この二つは異質なものである、デカルトは考えた。
 このようにして、物と心を分けておけば、物の存在は心の存在に左右されることはない。物、すなわち客観は延長を持たない神や霊魂(れいこん)や個々の主観とは独立に存在するという話になる。心や主観が入れば、事情は個々人によって違っ(ちが )てくるが、主観が入らなければ、事情はすべての人にとって同じである。ここに客観という公共性が出現する。

(池田清彦(きよひこ)『科学とオカルト』より)
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a 読解マラソン集 12番 本当のことを言えば wapi3
 本当のことを言えば、客観が主観と独立だなんてことはない。もちろん、自然は我々人間の存在を抜き(ぬ )にしても存在することは間違い(まちが )あるまい。だから、自然そのものを客観であると考えれば、客観は我々の存在と独立に存在する。しかし、そんな客観では、いかなる公共性も持ち得ない。なぜならば、公共性を持つためには他人に伝達する必要があり、伝達するためにはとりあえず記述する必要があるからだ。記述するのは、個々の主観である。だから、公共性を持った客観が主観から独立しているということはあり得ないのだ。
 科学論文にはありのままの事実が書いてあると思っている人が多いけれども、実はここにあるのは事実ではなく記述である。たとえば、科学者がある実験をしたとする。ありのままの事実であるならば、実験をビデオに撮っ(と )てみんなに見せればよい。しかし、そんなものは科学者仲間から決して業績とは認められないだろう。科学論文と認められるためには、実験から有意味であると科学者仲間が認めるものを選びとって記述しなければならないのである。だから科学における客観的記述と称する(しょう  )ものは事実そのものではない。
 客観というのは、ゆえに、事実から記述をなす時の、科学者仲間の約束ごとに支えられて成立しているのであり、この約束ごとは後にパラダイムという名で呼ばれるようになるのだが、そういうこととは無関係に、今でも、ほとんどの科学者は、記述は約束ごとではなく、事実であるゆえに客観的だと信じているらしいのだ。
 先に、科学が歴史上初めて、客観というやり方で公共性を担保した制度だと書いたけれども、この公共性も、実は法律と同じような単なる約束ごとであったわけだ。(中略)
 さて、このようにして記述する自分を棚(たな)あげしてしまえば、自然の中にはだれが記述しても同一のものがある、とのデカルト的信念は確固たるものとなる。たとえば、目の前の物体が、きれいであるか気持ち悪いか、いかがわしいか、といった記述は、記述する人の主観によって違う(ちが )。しかし、重さが何グラムであるとか、長さが何メートルであるとかは、記述する人の主観によって左右されることはない。これぞ、客観であるというわけだ。
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 何でもよいから、測定して数量化すれば科学的データになるとの信仰(しんこう)はここからくる。逆に言えば、数量化できにくい現象は、科学になりにくいのだ。たとえば、明るいとか暗いとかの記述は、科学的な記述とはみなされないが、照度何ルクスと書けば、たちまち科学的データになるわけだ。
 物理学が十九世紀から二十世紀の半ばにかけて、科学の最先端(さいせんたん)を走っているように見えたのは、ゆえないことではないのだ。物理学は最も数量化しやすい分野だからである。
 もう一つ、数値と並んでだれが記述しても同じものがある。それは、自然の中に存在する不変の実体である。もし、そういうものがあって、それに名前をつけることができれば、名前(記述)はだれにとっても同じものを指示するに違い(ちが )ない。数値は不変といっても抽象(ちゅうしょう)的なものであるが、実体は具体的な物である。客観を重視した科学は、自然の中にある不変の実体を探す試みという面を強く持つようになる。これは素粒子(そりゅうし)論におけるクオーク(陽子や中性子の構成要素)や超(ちょう)ひも(すべての物質の究極の構成要素として仮想されている最終実体)に続く道となる。
 さて、以上述べてきたような、客観的なるものによって理論を構築すれば、理論そのものが客観的になるのは論をまたない。このようにして、科学の理論はその中から「神」や「霊魂(れいこん)」や「主観」を抜い(ぬ )て公共性を獲得(かくとく)したのだ。客観的な理論は、原則的にはだれにも理解でき、その正否が何らかの実験によって、確かめられるものとなったのである。もちろん理論には内部矛盾(むじゅん)があってはならず理論的整合的であることが求められる。

(池田清彦(きよひこ)『科学とオカルト』より)
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読解問題

wapi-09-4 問題1
問1 読解マラソン集9番「岩淵悦太郎さんの調査によりますと」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 日本語は、他の国の言葉に比べて文法が複雑なので、外国人には理解しにくい
B これからは、日本語も国際化するので、わかりにくい同音異義語を整理しておく必要がある
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答1

wapi-09-4 問題2
問2 読解マラソン集9番「岩淵悦太郎さんの調査によりますと」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A カタカナ語を従来語で言い換えると、耳で聞いたときにかえってわかりにくくなることがある
B 明治時代に、西洋語を従来語で翻訳したように、現代にふさわしい従来語の翻訳を考える必要がある
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答2

wapi-09-4 問題3
問3 読解マラソン集10番「氏の『沈黙』は、キリシタン禁制時代の日本に」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A ロドリゴが踏絵を踏めば、多くの信徒たちも転向するはずだった
B フェレイラは、日本人が神とよんでいるものは、教会の神とは違うと思った
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答3

wapi-09-4 問題4
問4 読解マラソン集10番「氏の『沈黙』は、キリシタン禁制時代の日本に」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 十字架上のキリストは、自分が踏まれることによって信徒たちを救えるのだと思っていた
B 遠藤周作のえがくキリストや神は、西洋の文化の中にある厳格さを持っていない
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答4

wapi-09-4 問題5
問5 読解マラソン集11番「フランス大革命のあと」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A フランス大革命の前まで、科学者は教会に義理立てをしていた
B さまざまな現象をできるだけ新しい理論で説明することが科学に求められている
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答5

wapi-09-4 問題6
問6 読解マラソン集11番「フランス大革命のあと」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 理論の公共性によって、科学は社会に役立つものとなることができた
B 科学とは本来、客観を基準にすることで公共性を担保するものである
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答6

wapi-09-4 問題7
問7 読解マラソン集12番「本当のことを言えば」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 公共性を持つための客観は、個人の主観から独立している
B 実験をそのままビデオに撮ったものは、公共性のある客観とは言えない
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答7

wapi-09-4 問題8
問8 読解マラソン集12番「本当のことを言えば」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 現代では、数量化できない現象は、客観的な科学とは見なされない
B 科学の理論は、「神」や「霊魂」も、その客観的な枠組みの中に取り込んだ
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答8
 正解は 、問1=4 、問2=2 、問3=1 、問4=3 、問5=2 、問6=4 、問7=3 、問8=4