書いた人は中久喜 on 98/09/25 01:21:14:
コメント先: 日の丸・君が代よりも別の焦点が posted by 森川 林 on 98/09/24 07:15:13:
> 日の丸・君が代の論争は、本質の論争でなく、シンボルの論争なので、過激になりやすいところがあります。本質的なところでは一致できることもシンボルでは一致できないことがあります。
> ということを断ったうえで。
言われている事は、わかる気がします。
> 今は、日の丸・君が代が左右の勢力の綱引きの焦点になっているとは思っていません。では、どこが焦点になっているかというと、民主主義をさらに広範に徹底するか、民主主義の及ばない部分を残しつづけるかということで、これが政治的にも経済的にも日本の社会のあらゆる分野で焦点になっていることだと思います。
>
民主主義の確立ができるかどうかの綱引きということですね。その点は同意いたします。
> 日の丸・君が代の問題のような話は、本当は、中学・高校で賛成反対両方の本を読ませて生徒に感想文を書かせれば(^_^;)いいと思うのですが、そういうことがなされていないところに今の教育の問題があります。(お、だんだん、話が脱線してきた)
ここも良く分かります。
> 宗教についても、「エホバの証人」の人の話と、それに反対する意見の人の両方の話を聞いて、生徒に考えさせるような授業があればいいのですが、そういうことが一般的な教養としてなされていないから、大学生になったり社会人になったりして、たまたま読んだ本や、たまたまであった人に宗教の話をされたときに、免疫ができていないからすぐに感染してしまうというところがあると思います。
自分で考えて、理解したことを拠り所にするということですね。これもわかります。
> この感染というのは、宗教に感染するだけでなく、反宗教に感染することも含めてです。つまり、柔軟な考えができなくて、一途なステレオタイプ的な考えになってしまうということです。
>
うーん。さすがです。個人の考えが一面的になる事により、きちんとした判断が下せなくなりますね。
> 話がずれてきましたが……(^^ゞ
いいえ、話をしたい所はこういう事なのだと気づかされました。
さて、そこで、どうやっていろんな方面から見て行けるような豊かな個性を作って行けるかなのですが、これをしていくためにはそういう場が必要ですね。
常に自分を検証して、見方が片寄らないようにしていかなくてはならない。その機会を持たなくてはいけませんね。
しかし、それができたら、健全な精神といえるのでしょう。
自分は、日の丸、君が代の問題を通して、その精神に近づけるようになりたいと思います。
そのヒントを与えていただきありがとうございます。