書いた人は中久喜 on 98/09/26 05:03:58:
コメント先: 甘い親にならないようにしよう posted by 森川林 on 5月 17, 1997 at 07:50:31:
: 子供たちの住んでいる世界は、半分、動物の世界で(あ、かわいい小動物を連想してく
: ださい)、子供たちは、言わば小さな「弱肉強食」の世界に住んでいます。ですから、子
: 供たちは、学校の先生に対しても、権威を感じる先生には喜んでしたがい、あまり権威を
: 感じられない先生には反発をするのです。このとき、子供たちは、その先生の中身を判断
: してそういう行動をとっているのではありません。どんなに中身の濃い立派な先生でも、
: 外見上、権威ある態度をとれない先生は、子供たちの信頼をかちとることはできません。
ここに書かれていることは、表面的には正しいと思います。つまり、恐い表情の先生には子どもは従います。しかし、それは信頼し、したがっているわけではなくて、一種の強制を受け入れているだけではないでしょうか。自分は子どもとの関係の中で権威の衣を脱いで、向き合おうとします。すると、面白い現象が見られます。子どもは、私を先生として取り扱ったら良いのか、馬鹿にする相手として扱うのか悩みはじめるのです。ほとんどの子どもは権威を感じられなければ、大人を馬鹿にしはじめます。しかし、中には、自分の頭で相手の位置付けを考えはじめる子もいるのです。
自分は、この自分の頭で相手の位置付けを探ろうとする子どもたちこそが、これまでの文化のあり方を変えていく能力を持った存在として、期待してしまうのです。
: もし、こういうやりとりの仕方で、子供たちに接していたら、文化を伝えることなど何
: もできなくなってしまいます。「朝、おきたらあいさつをする」「席を立ったらイスをし
: まう」「玄関では靴をそろえる」「テレビは○時間しか見ない」「○時になったら勉強を
: する」「歩きながらものを食べない」「弱い人には優しくする」等々。こういうルールに
: は、理由はありません。子供たちが、現代の日本の社会の中で人並みの文化的教養を身に
: つけていきていくことができるように大人が伝えるものですから、理由なく伝えなければ
: いけないものなのです。
習慣として、身についているべきものであると確かに思いますが、それが外見的な行為であるなら、ロボットと変わらないのではないでしょうか。自分の内面から湧き出る行為であるときには、その人の人格を感じさせるのですが。
表面的に身についた行為であれば、その子の育った家庭環境を思い浮かべることがある程度できますが、それだけです。もっと言えば、そういう子は機械的に同じ行為を繰り返しますから、その場にあわせてどう物事を取り扱ったら良いかがわからなくなります。自分の履き物を自分でそろえずに、他人に任せなければならないケースが理解できないのです。
ですから、自分の考えでは、親が手本を示し、それを見ることで、その場の物事の処理の仕方を理解していくことが大切なのではないでしょうか。教え込むのではなく、感じられるようになる感性を育てるといったら良いでしょうか。まるで職人を育て上げるような感覚と言ったら良いでしょうか。