まず、焼トン屋の親父の話から、自分の好きな仕事をすることで、客観的になれないとのお話しがありました。この点につき感じるのは、これが自分を抑え込んでしまう「日本的イデオロギー」が顔を覗かせているように思えるのです。自分の個性を表現することをやめてしまう。そういう態度から出てきているのでしょうか。
次に、アインシュタインのお話しでは、日本と西洋の知的環境の違いというものにもっと注意を向ける必要があるのではないかと感じました。アインシュタインは社会全体への影響を考えていなかったのではないかという指摘ですが、社会全体を考えようというのは、やはり日本的態度ではいかと思います。西欧の知的伝統では、何が真実かの探求を優先させることによって新しい発見を次々と成し遂げてきたという事実を忘れてはならないと思います。
また、自分たちにはやる気がないという指摘には同感させられる部分もあるのですが、なぜやる気が見られないのか。この点につき、もっと掘り下げた議論を期待いたします。特に「日本的システム」との関係で議論をしていきたいと考えますが、いかがでしょうか。
さらに、自然が価値の源泉であり、豊かな自然が価値の集合体であるというとらえ方については、『資本論』の冒頭にあるマルクスの次の言葉が思い浮かびます。
「資本主義社会における富は、巨大な商品の集積として立ち現れる。」
商品には、人間の労働が結晶化したからこそ価値を持つというのがマルクスの考察であり、マルクスはその価値を交換価値と名付けます。一方、同時に商品には使用価値というものがあり、使用価値が無ければ効用がなく、そもそも商品として取引されることはないと考察されています。しかし、使用価値そのものは商品の質を示すもので、それには値段がつけられない。それに対して、交換価値は商品の量を示すものであり、交換価値の大きさはその商品の生産に要した労働時間によって測ることができ、交換価値に基づいて商品に価格がつくのだと説明されます。
このマルクスの使用価値というものが、ここで蓬莱さんが言われている自然の生み出した価値というものに思えて仕方ないのです。それは価値の源泉でありながら、決して金銭で測られることのないために、この社会では重視されにくい価値なのでしょう。
最後に、文明の破滅を語られていますが、この文脈からすると、西欧起源の文明と推測できますが、さらに詳細な議論を期待いたします。