生産力の発展は、自然を人間的な意味でより豊かにしてきました。荒れた土地を田や畑に変えて人間が住めるようにしたのは、経済発展の功績です。(タヌキやイノシシにとっては住みにくくなったかもしれませんが)
勃興期の資本主義は、個人の自由な利益追求が社会全体の利益向上につながるという楽観的な「見えざる手」をその理論的支柱にしてきました。その理論は、確かにある程度まで現実にあてはまっていたと思います。
しかし、現在の資本主義は、より効率的な利益追求を求める結果、マネーが生産に向かわずにマネーゲームに向かうという様相を呈してきています。
マネーゲームの世界は、生産の世界と違って、個人の利益が相手の不利益を前提にして初めて成り立つというばくちの世界です。
こういう状況を見ると、ともすれば、お金の論理とは別の論理で社会を運営することが理想のように思えてきます。たぶん将来は、今のお金が奪い合う手段としてのお金ではなく与え合う手段としてのお金に変容していくと私は思います(仮説ね)。しかし、そういう社会が来るのは、まだずっと先です。
現在は、お金の論理を自然の保護や人間の幸福に結びつくようにコントロールしていくことが必要な時期だと思います。そして、そのコントロールの中核になるものが、徹底した民主主義だと思います。
例えば、うちの近所の駐車場で、雑草を駆除するために除草剤を撒いているところがいくつかあります。一方高い人件費をかけて草取りを手作業で行なっているところもあります。また、土の部分をコンクリートで塗り固めているという新しい方法を採用しているところもあります。ついでに言うと、そのコンクリートが雨水を染み込ませるように工夫しているところもあります。もちろん雑草のまま放置しているところもあります。
コストだけを考えれば、放置が一番、除草剤が二番、コンクリートが三番、手作業が四番ぐらいだと思いますが、除草剤で処理するところはだんだん減ってきているようです。
安い除草剤よりも高い手作業を選ぶのは、そこにお金の論理と並行するかたちで別の論理が働いているからです。民主主義を徹底するとは、その別の論理をより強力に推し進めることです。
確かに環境破壊は、一刻の猶予も許さない段階に入っているのかもしれません。しかし、時間さえあれば、いまの社会の仕組みのままで経済と自然を両立させることは十分に可能だと私は思います。
そして、結論はいつも同じですが、社会のあらゆる面で、より徹底した民主主義をということです。