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あえほゆ(あえほゆ)クジャクの滝2024年03月清書
分析の意味
あえほゆ

 分析とは、外から物を見る方法である。また、分析方法の確立者であるデカルトの言葉から、要素への還元とも言える。私たちはそのもの自体を知るのではなく、名前をつけることによってそのものを理解している。物質の要素は、分析的認識としては記号的認識以上には出ることがない。認識の対象が外にある限り、そのものをとらえるためには立場と記号が必要になる。むしろ極微の世界では、それを見るのは日常的な感覚や知性では不十分で、数学的表現のみがそれを正確に表しうるのであることを思うとき分析的認識が記号的認識であるということが明らかになる。分析をする上で注意することは、分析の要素とは単にその対象だけにあるものではなく、ほかの多くのものにある一般的要素であるということだ。分析するということは特殊なものを一般的なもので理解することであり、ユニークで唯一独自のものは分析できない。つまり、ほかの何にも置き換えられない唯一独自のものや正しい意味での時間の認識には適用できないのである。分析主義の限界から、分析的な考え方を否定する風潮が生じている現在では、物事をトータルに見ていく力が求められる。。
 第一の対策は、分析主義、総合主義という頭で観念的に考えたことを基にするのではなく、現場の意見を反映して考えることである。例えばスポーツにおいても、事前に対戦相手が分かる試合の場合、相手の対策をしてから試合に臨むのが普通である。相手が左利きであるなら左利き対策をするし、戦い方に癖のある人ならその戦い方をしっかりと調べる。このようにたいていの人が相手のことについて分析をする。しかし試合本番になると、相手の対策をどれだけしたら勝てるというわけではなくて、自分のその日のコンディションも関わってくる。いくら左利き相手にどのようなプレーをしらいいか分かっていても、自分の調子がよくないと練習したことができなくなってしまう。そのため、その日の自分のコンディションのことを考慮しながら、戦い方を考える必要がある。つまり、分析をすることは大切であるが、それ以上にその現場に直面しているリアルな声を大事にするべきなのである。
 第二の対策としては、多くの人の意見を反映させていくことである。人にはそれぞれ得意不得意がある。そのためその人に適したことを大いに活用できる世の中になるべきだ。身近な例で考えると、学校内でのグループ活動が挙げられる。学校には特に性格や得意なことが大きく異なる人が多く集う場所である。そのため、同じグループの中でもそれぞれに得意なことがある。みんなを纏め上げることが上手な人もいれば、たくさんのアイデアを出してくれる人など多種多様である。しかし、そのそれぞれの人においても苦手なことがある。例えば私は、グループ活動をするときにはまとめ役か発表担当などをすることが多い一方、みんなの意見を一つの考えにまとめたりするなどアイデアを出すことがあまり得意ではない。だから、いつもその役をやってくれている人にとても感謝している。それぞれの得意なことを大いに活かせるように、私たちはたくさんの意見に耳を貸していくべきなのである。
 確かに、分析をすることによって細かな詳細について知ることができるかもしれない。しかし、それだけで終わってはいけない。超スマホ社会に住む私たちは、スマホの詳細ばかりに気をとられすぎて周りの人々への興味がだんだんと薄れていってしまっている。スマホを使えば今までとても面倒であった計算や分析をいとも簡単にすることができるようになった。しかし今の私たちにとって一番大事なのは、その詳しく分析した情報をどのように活かすのかである。情報を分析しただけでは何もかわらない。その情報を使って新たな科学技術の進歩などに役立てることによって、分析をすることに初めて意味が生まれる。

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