マップ | スタッフ用
コード: パスワード:

あいたぬ(あいたぬ)広小の広中2024年03月清書
曲と言葉と文化のジェネレーション
あいたぬ

季節が移り、色とりどりの草花が地表を覆い、暖かい空気に包まれるこの季節、僕はヒヨドリやメジロと並んで椿の蜜を吸っていた。比較的きれいな花をがくから外し、根元の方を吸えばほんのりと甘い風味がする。このまさに春風のような優しい甘さが好きでいつもつい吸ってしまう。ある日、ツバキの木の根元で「この花食べれるんやで」と自慢げに友達に紹介していると、この学校で最も厳しく恐ろしいと謳われている国語教師が怪訝な顔をしてこちらに向かってきた。命の危機を感じたため、さっと帰ろうとしたとき、僕は肩を掴まれた。どんな罰が待っているだろう、とこの世の終わりを体験したような表情になった僕に対して教員はこういった。「食べられると言いなさい」。僕はあっけにとられた。なぜ今そんなことを言ったのだろうか。普通の教師なら校内の植物を傷つけるな、などの用務員的発言をするはずだ。その教員によると、自分は言葉から「ら」が抜けることを極端に嫌うらしく、その後表現に気をつけるようしつこく説教され、気づいたら下校時間を過ぎていた。帰りながら「でもこの前担任も『食べれる』って言ったやんな」などと文句を言いながら、今の時代はどっちだ、と議論をしていた。これに関してはかなり解釈が分かれたが一つ、僕なりの結論が出た。その結論へと導いてくれたのが「ラレルは4つの仕事を」である。
 この文章には明らかにタイトルそのままだが、ラレルを代表とした言葉の使い方について書かれている。ラレルには主に4つの使い方がある。その中でも特に可能の意味で『ら』が抜けることが多い。そんな「ら抜き言葉」も今はもう普通に使われてきており、筆者はもとの正しい言葉を使うべきだと主張している。このことを参考にしつつ、今回は僕とその友人たちが議論して導き出した結論について書いていく。
まず、古く正しいものは良い。「正しいもの」といえばどんなものがあるだろう。例えば伝統的な品物や言葉つかい、漢文や古文、音楽なら魔笛などのクラシック、越天楽などの古典音楽などが挙げられるだろう。それらにはある共通の利点がある。それは制度が固まっていることだ。漢文や古文はルールが確立していて、誰でもルールを知っていれば解読できる。今の言葉は元の言葉がわからないレベルまで略された言葉が多い。また良い塩梅で調和するところも利点と言えるだろう。僕のお気に入りの昆虫標本の専門店があるのだが、その店はとてもアンティークなデザインをしている。その店の雰囲気が僕はとても好きだ。あの今にもクラシック音楽が流れてきそうな洋風のデザインがしっかりと固まっていて実に美しいと感じられる。
しかし新しく便利なものも捨てがたい。最近はAIの技術が格段に上がり、スマートホン1台さえ持っていれば連絡から娯楽までさまざまなものができる。音楽で例えるなら、ボカロ曲やYOASOBI、Adoなどハイテンポなものが多い。これらの利点は何でもぱぱっとできるところだ。今はメッセージだってLINEを開いて文章を送ってしまえばものの数秒でメッセージが届く。高級なカメラレンズに引け劣らない高画質なカメラ機能、かくなる上は、Youtubeなどおもしろ動画だって簡単に観ることだってできてしまうのだ。音楽は多忙な最近の人達のリズムに合っているから流行っているのではないだろうか。また人によって趣味は違うため公には言えないが最近の若者と謳われている人たちは、おしゃれな人達が多い。なにはともあれ自分の容姿について考える時間があることはいいことだと思う。
このように古いことにも新しいことにもそれなりの利点はある。だが僕たちが導き出した結果はこの内のどちらでもない。そう、いちばん大切なことは自分にとって大切なものかどうかをよく考えることだ。自分が使いやすいものを使うことこそが自分の向上にも繋がり、モチベーションも上がるため、いちばん大切なことだ。
結局、僕たちは教師の、特にあの国語教師の目を盗んでまた椿を吸う計画をしようとそれぞれ家に帰った。言葉遣いもそれに過剰に厳しい老人も気難しい。それが僕たち若者の率直な感想だろう。だがそんな人もまた若い頃僕たちと同じように悩んだのかもしれない、と感じた。気付けばもう日が暮れている。サクラは少し赤っぽい色に染まりながら夕日を背に風に乗って散っていった。

手書きの清書は表示していません。