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3月31日(金)のディスカッションのテーマ (2809字) 森川林(nane) 2023/03/30 05:22:48 14632   5     

■第二次大戦はデモクラシー 黄アカシア10.3週

 第二次大戦はデモクラシーとファシズムの戦争だった。これがいまの歴史教育の基本である。こんな大嘘はない。
 あの戦争ではアメリカとソ連が手を結び、同じ側に立ったのである。アメリカがデモクラシーであることに異論はないが、スターリンのソ連をデモクラシーと言ったら、噴飯ものである。
 第二次大戦をデモクラシー対ファシズムの構図にしたのは、アメリカの戦時プロパガンダである。プロパガンダは事実である必要はない。嘘でも何でも、目的を達成すればいいのである。アメリカはこのプロパガンダで戦争の正当性を主張し、デモクラシーの価値を守るための戦いだと言って国民の士気を鼓舞し、目的を達したのだ。
 では、第二次大戦はどういう戦争だったのか。アルタルキーの国と非アルタルキーの国の戦争だったのである。
 アルタルキーの国とは、近代産業を支えるための天然資源を自国内や植民地内に持っている国のことである。逆に非アルタルキーの国はそのための天然資源を持っていない国をいう。
 あの戦争をアルタルキーの国対非アルタルキーの国のぶつかり合いと見ると、全体像がはっきりする。
 アメリカ、イギリスはもちろん、ソ連もフランスもオランダも、いわゆる連合国側に入る国はすべてアルタルキーの国である。それに対峙した日本もドイツもイタリアも非アルタルキーの国である。アルタルキーの国はブロック経済で関税を高くし、非アルタルキーの国を締めあげた。しかし、関税を高くするぐらいは耐えられた。すると、今度はアルタルキーの国は非アルタルキーの国に天然資源を売らないとなった。航海条約が破棄され、貿易が遮断された。こうなってはたまらない。ついに爆発して戦争になった。これが事実である。ところが、デモクラシー対ファシズムの戦争というアメリカの戦時プロパガンダを鵜呑(うの)みにして、歴史教育は行われている。デモクラシーとファシズムとでは、明らかにデモクラシーが善であり、ファシズムが悪である。従って、ファシズムの側にくくり込まれた日本は悪者ということになる。
 (中略)
 いま約百六十か国の独立国が国連に加盟している。こんなに独立国が増えたのは戦後のことで、しかもそのほとんどは有色人種の国である。これは日本がアメリカとがっぷり組んで横綱相撲を取った結果なのだ。
 連合国側に与(くみ)した白人国家は有色人種の国を独立させる意志はなかった。事実、戦後日本が東南アジアから引き揚げたあと、イギリス、フランス、オランダなどは軍隊を送り、もう一度東南アジアの国々を植民地にしようとした。
 だが、それはできなかった。東南アジアの人びとが、日本の勇敢な戦いの前に敗北する白人たちを目(ま)の当たりにして、白人に有色人種が勝てることを知り、敢然と抵抗したからである。
 ビルマやフィリピンは日本の統治下で日本の協力のもとに独立した。その波はインドからアフリ力に及び、そして独立した有色人種国家が国連などで活躍するのがアメリカの黒人を勇気づけ、市民権獲得となっていった。
 つまり、すべての人類は平等とする波が起こったのは戦争の結果であり、その起点となったのは日本なのである。
(「致知」 渡部昇一氏の文章より)

■徳川譜代の暮臣鈴木重成 黄アカシア12.1週

 徳川譜代の暮臣鈴木重成は三代将軍家光のころの人で、島原・天草の乱後、幕府の天領(直轄地)となった天草に代官として赴任しました。島原・天草の乱では三万七千人の民が皆殺しにされましたが、重成自身も乱のとき砲兵隊長として出陣したので、相当の人数を殺したはずです。天草に赴任したときには罪業感を抱いていたかもしれません。
 重成に課せられた任務は、天草の民が二度と乱を起こさないよう民心を安定させること、規定通りの年貢を収められるだけの生産力を回復させること、キリシタンを仏教に改宗させることでした。どれひとつとっても大変なことですが、重成の実力を見込んでの人事でした。
 天草の状況は悲惨でした。島原・天草の乱後、人口が激減し、多くの田畑が耕す人もなく荒れるに任されていました。しかもそこへ過酷な税金が課せられ、農民は木の根、草の根を食べて命をつないでいるありさまです。
 かねてから、天草の島全体の生産力は二万石ほどしかないのに、石高は四万二千石と査定されていました。そもそも島原・天草の乱が起こったのも、重税による生活の苦しさから逃れようと、大勢の農民がキリスト教に入ったことが原因でしたが、乱後も状況は同じでした。
 重成が民の生活を向上させるためにまずやったことは、神社仏閣、道路、港などの築造工事を行い、民に賃金を得させることでした。このために重成は幕府から巨額の資金を調達したようです。いまも天草には、二、三十億円ほどの価値があろうかという社寺が二十五か所ほど残っています。
 やがて重成の努力が功を奏して、荒れた田畑にも実りが戻り、島の生産力は徐々に上がってきました。民の生活にも多少余裕が生じてきたかに見えました。しかしそれでもなお、石高四万二千石の査定は天草には重すぎました。だが重成は幕府の代官です。いかに民の窮状を見るに忍びなくとも、税を徴収しなければなりません。
 ついに重成は石高半減の嘆願を決心しました。重成の心に菩薩心が起こりました。世のため人のためにわが身を投げ捨てようという覚悟です。
 重成は、自分が生きている間に嘆願が受け入れられないことを承知していました。なぜなら、重成の嘆願が認められれば、他の代官がわれもわれもと嘆願書を出すからです。そうなれば幕府の台所にひびが入ります。しかし、嘆願を実現しなければ天草の民は救われません。
 幕府を生かし民も生かす道は一つ。切腹です。
 もちろん、重成には他の道をとることもできました。年齢もすでに還暦を過ぎていましたから、病気を装って隠居を願い出ることもできました。あるいは平々凡々の場当たり的な政治を行って無難に切り抜けることもできたでしょう。しかしそれは、己の命を捨てて他の命のために尽くそうとする重成の菩薩精神が許しませんでした。
 ある年、肥後(熊本県)地方を大暴風雨が襲いました。天草は壊滅的な打撃を被り、農民は田畑も家も食べるものも失いました。
 民を飢えから救うには、米蔵を開放する必要がありました。だが米蔵を開くには幕府の許可が要ります。無断で開けば切腹です。しかし、天草と江戸の距離は往復二千五百六十キロ。普通に歩けば八十日かかります。使いの者の帰りを待っていては民が死にます。
 だが、重成の覚悟はもう固まっていました。「なに、わし一人腹を切れば済む」重成はすぐに米蔵の開放を命じました。承応二年(一八五三)旧暦十月十五日午前零時、重成は石高半減の上表書を妻重子に託して、切腹しました。
(「致知」 黒瀬昇次郎氏の文章より)



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