元の記事:見テ知リソ知リテナ見ソ (1094字)
こうき aoseo 2025/06/26 18:41:33 50208
2 
6月4週
岡田航輝
「見テ知リソ知リテナ見ソ」これは、見てから知るべきである、知ったのちに見ようとしないほうがいい、という意味だろうが、じつはもっと深い意味があるような気がする。つまり、われわれは「知る」ということをとても大事なこととして考えている。しかし、ものごとを判断したり、それを味わったりするときには、その予備知識や固定観念がかえって邪魔になることがある。だから、まず見ること、それに触れること、体験すること、そしてそこから得る直感を大事にすること、それが大切なのだ、と言っているのではないだろうか。たとえ、百万人の人が正反対のことを言っていたとしても、自分が感じたことは絶対なのだ。
僕は、知識にのみ縛られないことが大切だと思う。なぜそう思っているのかというと、これまで当たり前だ、と思っていたことが間違っているかもしれないからだ。例えば、昔は人々は、太陽や月が動いて、地球は止まっていると思い込んできた。ガリレオ・ガリレイなどの人々が訴えたが、二度とそのようなことをしないように誓わせられてしまった。しかし、のちに地球や月やほかの惑星がすべて太陽の周りをまわっているとわかった。その時、人々はとても驚いたらしい。この発想にほとんどの人々が行きつかなかったのは、地球が止まっているのが当たり前だという固定概念を持っていたからだと思う。ガリレオ・ガリレイなどの人々は、そのような固定概念を一時的にだとしても、捨てることができたからこそ、『地動説』を考え出すことができたのだと思う。
二つ目の理由は、人々は今、大人の固定概念によって生きている。例えば、僕たちは、昔は固定概念などがなく、おばけなどの心霊現象やテレビで見るヒーローは実在していると思っていた。しかし、時がたつにつれてだんだん大人たちに教えられたことが当たり前になっていき、僕たちも固定概念の塊のようになってしまった。しかし、一時的に固定概念を忘れて物事を考えないと、僕たち人間は発明などができなくなってしまう。だから、固定概念だけに縛られないで生きていくことが大切なんだなあ、と思った。
固定概念がない、という人も、わからなくはないが、少しはあると思う。例えば、人は生身の状態で道具を使わないと、空を飛べない。このようなことは、少なくとも全員考えているはずだから、人間ならだれでも、少しだけは全員固定概念を持っていると思った。
僕は、「疑うことは発明の父である」というように、知識のみに縛られずに、時には固定概念を捨てて考えてみることも大切なんだなあ、と思った。