元の記事:気を抜くこと (912字)
utauta utauta 2025/09/13 20:58:32 53219
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その水はただそこを循環しているだけであるから、何もうるおさない。言ってみれば、何の役にも立たないものなのだ。都市住民は、すべて役に立つという環境にならされているから、目の前に突如として何の役にも立たないものが出現すると、それだけで文化的に衝撃を受け、深く困惑する。噴水は、ただ水を噴き上げていればいいのである。
私の家にはいらないものがたくさんある。他とえば意味もなく置いてある、フィギュアやお土産で買った付箋、お人形。しかし、いらないといっても捨てにくい。お人形はなぜか捨てたら後悔しそうで捨てたくない。付箋もいつか使うかもしれない。と考えてしまう。ホテルでもらった、アメニティも「修学旅行などで使うかもしれない。」と思い捨てられない。だから、部屋の中に役に立たないものが散乱している。「いつか使うかもしれない。」と思うものは噴水とは違う「役に立たないもの」だと思う。なぜかというと、噴水は「新たな文化を創り出す」らしい。しかしお人形や、アニメティ、付箋はただただ役に立たないものになってしまうからだ。
省いても生きていけるものはたくさんあると思う。スマホもなくても生きていけるものの一つだと思う。電話をしたいならば、ガラケーでもいいと思う。それか、大人もキッズ携帯を使えば、いらないものは省ける。ゲームも必要ない。ゲーム機を買わなければ、貯金はいつもよりも早くたまると思う。しかし、生きるのに必要なものだけじゃ、ストレスがたまると思う。ゲームが好きだから、そのお金を貯めるために働いている人もいると思う。息抜きはたいせつだ。存在が消えたとしても、いつか生まれてきて、すぐはやると思う。犬もそうだ。「シットやダウン、ヒール、カモン、リリース」などは生きるために必要なことだが、別にトンネルがくぐれなくても生きていることができる。気を抜くことは重要だ。
人間にとって、役に立たないもの、生きることに必要ないものも、気を抜くために、いるものだということが分かった。学校でもずっと勉強はつまらないから、中休みがあり、集中しているところや、頭を休ませるために必要だ。だから私も、中休みや、昼休み、給食の時間が好きな理由が分かった。