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何事ぞ花見る人長刀 (974字)
花蓮 kikaren 2026/09/14 20:09:23 66594
私は言葉に頼らない、日本的なコミュニケーションのとりかたはよいと思う。
一つ目の理由は言わなくても一緒に生活していたらだいたいわかるからだ。私の家族は、あまり多くを語らない。けれど、顔を見ればだいたいのことが分かる。たとえば、母が少し眉をひそめているだけで、何か心配事があるのだとすぐに気づく。逆に、何も言わなくても、ふとした表情のゆるみで、機嫌がいいのだと分かることもある。言葉で「疲れた」「嬉しい」と説明されなくても、日々一緒に過ごしているからこそ、小さな変化に気づける。それは、相手をよく見ているからこそできることであり、そこには言葉以上のやさしさがあると思う。もし何でも言葉で確認しなければならなかったら、かえって相手に気を遣わせてしまうかもしれない。表情や態度から察するというのは、相手にそっと寄り添う、日本的なやさしさの表れだと私は思う。
二つ目の理由は、言葉にしてしまうと、かえって気持ちが軽くなりすぎたり、嘘っぽくなったりすることがあるからだ。誰かが何かを頑張った時、大げさに褒めたり労ったりすることはあまりない。以前、私が長い間準備してきた発表を終えて帰った日、家族は「お疲れ様」とすら言わなかった。その代わり、いつもは家族それぞれが自分の分だけ食べるようなお菓子が、テーブルの真ん中に少し多めに出されていた。誰も何も説明しなかったが、それが「頑張ったね」という意味だということは、なんとなく伝わってきた。もし「発表お疲れ様、頑張ったね、すごいね」と言葉で盛大に言われていたら、かえって照れくさく、その場から逃げ出したくなっていたかもしれない。言葉にしてしまうと、気持ちが軽い挨拶のように流れてしまうこともある。けれど、何も言わずにさりげない形で示された気遣いには、言葉よりも重みがあり、本当に見てくれていたのだという実感が残った。このように、あえて言葉にしないことで、気持ちを軽くせず、かえって深く伝えることができる。それも、日本的なコミュニケーションが持つ、静かな強さなのだと思う。
確かに、言葉にしなければ伝わらないこともある。しかし、長く共に過ごしてきた家族だからこそ、察する優しさ、そっとしておく優しさ、言葉にしないからこそ伝わる重みがある。だからこそ私は、言葉に頼らない、日本的なコミュニケーションのとりかたはよいと思う。