| 就業人口の半分以上が |
| アジサイ | の | 丘 | の広場 |
| 武照 | / | あよ | 高3 |
| 「ドク、デロシアン(車を改造したタイムマシン)が故障することはないの |
| ?」と助手であり、博士の唯一の友人でもあるマーティは不安の面持ちで聞く |
| 。「まあ大丈夫だろうな。一応この車はトヨタ製だからね。」 |
| 映画化されて話題になったSF小説「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に |
| こんな場面があったことを記憶している。博士が世界最初の時間旅行に日本製 |
| のマシンを使ったとは日本人として嬉しいことではないか。これは「日本製」 |
| が、当時世界にタイムマシンとして使っても安心だという品質を保証されてい |
| たということに他ならない(たぶん)。 |
| 別の例を引こう。二十世紀を代表する科学技術として、スペースシャトルを |
| 思い浮かべる人は多いであろう。しかし、そのスペースシャトルに搭載されて |
| いるカメラが、日本人の技術者の手によって作られていることを知る人は少な |
| い。ロボットではない。数万という部品を日本人の手作業によって組み立てて |
| いるのである。(毛利宇宙飛行士が使っていた高感度カメラもNHKのものだ |
| った。)これ以上例を挙げる必要はあるまい。我々は日本の技術力を誇りとす |
| べきなのである。時代の風潮に流されてこの技術を軽視することは、失うとこ |
| ろが非常に大きいと言えるであろう。 |
| ところが近年、これからは技術よりも「想像力」と売る時代になると言う主 |
| 張が頻繁になされている。アメリカは国家をあげて、工業技術からソフトウェ |
| ア中心の産業への脱却を推し進めた。コンピュータ産業の発達はその線上にあ |
| ると言えるであろう。しかし、それは同時にアメリカの危機でもあるという専 |
| 門家もいる。株が暴落し、米ドルが紙屑同然になったとき、結局頼りになるの |
| は職人的な技術力なのである。 |
| 日本で近年、技術より想像力という主張がなされるのはなぜなのであろうか |
| 。一つには、欧米諸国も共通することではあるが、先進国と発展途上国の分業 |
| 体制があるであろう。技術などは労働賃金の安い発展途上国に任せておいて、 |
| 我々先進国は知識階級として振る舞おうということである。一面においては資 |
| 本主義の必然ではあるが、それと共に自国の職人的な技術力は失われることと |
| なるであろう。これは非常に危険な状況といえるであろう。技術は、それ自体 |
| で機能し得るが、「想像力」は技術なくしては無意味である。どんなに優れた |
| ソフトウェアもコンピュータなくしては機能しえないということである。 |
| 日本には何事もまず技術ありきの産業であることが必要ではあるまいか。二 |
| 十代に相対性理論を完成し、後は筆の技術だけというアインシュタインならば |
| ともかく、我々は手を動かしながら物事を創造するということも多いのである |
| 。ミヒャエル・エンデとて、結末を考えずに物語を書いたという。駅前のイン |
| スタントカメラを制作する会社の女子社員によって提案されたという「プリン |
| トクラブ」など、ヒット賞品が消費者よりも、生産者に近いところで生まれる |
| ことが意外と多いの興味深いことだ。 |
| 確かに、これから「想像力」がこれまで以上に力を持ち得る社会になること |
| は確かであろう。しかし「想像力」という耳触りの良い言葉に流されて、これ |
| まで日本が築いてきた技術力が失われていくことは非常に危険なことだといわ |
| なければならない。先端技術において国際的に認められている「日本」であれ |
| ば、きっとソフトウェアの国アメリカよりも「強い」国になることが出来るは |
| ずである。究極のところ、技術者の手なくしてタイムマシンもスペースシャト |
| ルも動きはしないのだ。 |