| 感性社会への道 | 
| イチゴ | の | 空 | の広場 | 
| あやの | / | あしわ | 高3 | 
| 情報社会の次は感性集約型の社会だと言われているが、私たちの生活は未だ | 
| 工業社会時代の価値観で形成されている。学校教育を例に見ても、学校全般の | 
| 構成は30年以上前とほぼ変わらず、当時からの慣習や規則に従って生徒は制服 | 
| に身を包み、校則に縛られ、常に「受験」に苛まれている。次の社会を創造す | 
| る者を育成するはずの「学校」がこのような状態のままでは、「感性社会」が | 
| 自ずからやって来るとは思えない。 | 
| このような背景には、日本人特有の年長者の意向を尊重したり伝統的なもの | 
| を偏愛する慣習が色濃く反映していると言えよう。新しいものに挑戦するより | 
| も古いもの良さをもう一度見直そうとする、その見地が全く間違っているとい | 
| うわけではない。しかしこれからの社会が個人の嗜好、スタイル、ルックスな | 
| ど「美感遊創」を念頭に置いた感性社会へと変貌を遂げて行く中で、現代の若 | 
| 者の価値観を温故知新的観念のみで理解することは不可能に近いのではないか | 
| 。なぜならそこには一人一人の異なった感性を表現し、それを分かち合うこと | 
| に意味があるからだ。 | 
| その次世代の社会の要求に答えられる人材を育成するためには、先ず基本的 | 
| な学校教育の方針から改革して行く必要がある。全体的な校風として、もっと | 
| 自由で、温かみ、人間味のある場所を提供し、生徒一人一人が最も興味のある | 
| 分野を自ずから開拓して行くことができるような学校こそが求められるのでは | 
| ないか。今の学校のイメージは無機質で荒涼とした感じが強く、あまり長い時 | 
| 間居たいような所ではない。 | 
| 私の留学したアメリカの学校(小4年生から高3まで)は、芸術面に特に力を | 
| 注いでいる公立校で、非常にユニークなシステムだった。芸術科目は約8科目 | 
| に分かれ、どれも選択制で、自分の最も得意とするものを何年続けてでも習得 | 
| できる。芸術分野の教師陣も質が高く、学術科目の教師らの理解も有り、生徒 | 
| に創造する力を要求し、芸術の与える力を良く理解していると実感した。 | 
| このような改革を行うためには行政の関心みならず、教師や保護者らの強い | 
| 意志と、理解の精神なくしては始まらない。 | 
| しかしどんなに芸術的感性が要求されても、私は学術的教科を軽んじるべき | 
| だとは思わない。学術的と芸術的双方の面が折り合わさってこそ、人は人格的 | 
| に成長をすると思うからだ。 | 
| これからの感性社会の基礎を造り上げる私たちは、芸術と知識を照らし合わ | 
| せて「学習」の意味全体を深く掘り下げ、柔軟な見地を築き、その上で感性社 | 
| 会を自由に創造すべきだと思う。 | 
| 芸術は人の心の糧になると、私は信じる。 |