| 私の描く未来の社会 | 
| アジサイ | の | 峰 | の広場 | 
| 武照 | / | あよ | 高2 | 
| 私は何よりも化石が好きである。何時間も電車に乗り、誰も行かないような | 
| 山奥を歩き、化石を探す宝捜しにも似た楽しさは化石を探した人でなければは | 
| っきりとは分からないだろう。どんなに高級なフランス料理であれ化石を採集 | 
| しに行った時に地べたに腰をおろして食べるおにぎりに勝る物はないと断言す | 
| る。が、世間の風は必ずしも暖かいとは言えない。今でもはっきり覚えている | 
| のだが文化祭で地学部の発表をしていた時に「君は古生物を学んで社会に対し | 
| てどのような役に立つと思っているのか」とある人に質問されて面食らったこ | 
| とがある。学問の真価は役に立つか否かにあるのではないはずである。我々は | 
| 未知な物に引かれる。その未知な物を知ろうとすること、それ自身が学問の目 | 
| 的である。そもそも役に立つとされる医学もこの例外ではないはずである。学 | 
| 問とは限らない、どんな物であれその物自身の目的において価値が見出される | 
| 社会でありたい。 | 
| 現在しばしば見かける有用性という定規は過去の実学偏重主義の名残であろ | 
| う。福沢諭吉は日本を進んだ西欧諸国に近づけるべく実学を唱え、クラークは | 
| 北海道を開発するべく、測量や医学、農学など有用性の高い学問を学ばせた。 | 
| これらの例が日本や特定の地域を発展させるという必要を背景として持ってい | 
| たということは興味深い。つまり学問自身とは別の所に目的を設定することに | 
| よって必要性という定規は生まれたのである。戦後の高度経済成長も我々に新 | 
| たな有用性の定規を生み出したはずである。 | 
| それと同時に有用性が重視される背景として目的と手段の混同があるであろ | 
| う。受験勉強などその典型だと思うのだが、試験によって大学で学ぶ許可を得 | 
| ることは手段であって目的ではないはずである。目的と手段を混同し、目的を | 
| その学問とは別の所に設定すると、受験勉強に往々にして見られるようにその | 
| 学問のレベルは非常に低い物となってしまうであろう。教科書に載っている地 | 
| 学は抜け殻であると地学部の仲間は口を揃える。地学の学問としての醍醐味は | 
| 人間味の払拭された紙面からもきれいに並べられた博物館からも味わうことは | 
| できないはずである。 | 
| 旅と旅行は違う。旅行は目的地に着いて、その土地で珍しい体験をすること | 
| が目的である。それに対して旅は目的地などなくても良い旅をする過程で旅情 | 
| を楽しむ物なのである。確かに有用性を第一とすることで急速な社会の成長が | 
| なされてきたことは事実である。ベルトコンベア方式の工業生産などは個人の | 
| 労働自体に目的を求めていたのでは成されなかったであろう。しかし我々はい | 
| つのまにか旅ができなくなってしまったのではあるまいか。我々が物事自体に | 
| 価値を見出すことができるようになれば未来の社会はずっと楽しくなるであろ | 
| う。そう願いながら私はまた化石を探しにいくのである。 |