| 日本とはくらべものに | 
| アジサイ | の | 峰 | の広場 | 
| 武照 | / | あよ | 高2 | 
| 「・・・君たちキリギリスは何だね、遊んでばかりいて。今は競争の時代だ。ゆ | 
| とりだの、芸術だのと言っていては冬になって生き残れないぞ。」アリは忙し | 
| 気にそう言うと、走っていってしまった。長々と説教を聞かされたキリギリス | 
| 、バイオリンを弾きながら次のように呟いた。「そんなことは分かっているん | 
| だよー。だけど、働くために働いても何も生まれまい。」 | 
| アリの末期を見てみよう。スミソニアン博物館の館長を務めた人物に古生物 | 
| 学者のジェームズ・ウォルコットがいる。ウォルコットはカンブリア期初期の | 
| 奇妙な生物を研究した人物として知られているが、彼の晩年は寂しいものだ。 | 
| 彼は研究を誰にも邪魔されないためにスミソニアン博物館で働き始めたのだが | 
| 、その館長になったために行政の仕事に追われ、晩年は研究どころではなくな | 
| ってしまった。そして館長を止めた数年後彼は帰らぬ人となるのである。私は | 
| 彼の晩年の写真を見た。疲れきったその顔に私は「労働のための労働」に巻き | 
| 取られていったアリの寂しさを見たような気がする。現在の日本人はどうだろ | 
| う。心はキリギリスかも知れぬ。高度経済成長の時のような労働に対する純粋 | 
| な思い入れはない。しかし現在でも、労働のためには朝ラッシュにもまれても | 
| 、単身赴任で家族がばらばらになっても、一家団欒の時間が失われても、慣れ | 
| と、ある種の諦めを持って「労働のための労働」を続けているのである。 | 
| 労働の肥大化の背景は何であろうか。一つは近代の工業化がもたらした「労 | 
| 働と生活」の分離があるはずである。朝になると生活の場を離れ、職場で労働 | 
| をする。工業化以前には、労働は生活の場で行われていた。現在においても、 | 
| 職場は生活の場だという人もいるかもしれない。しかし、職場は自分のための | 
| 時間を創出することができないという点においてやはり労働の場なのだ。何れ | 
| にせよ、工業化は我々に「労働と生活」は違ったものなのだという意識を定着 | 
| させ、労働を生活とは無関係に肥大化させる下地を作ったと言えるであろう。 | 
| それと同時に、一見逆説的ではあるが、労働の効率化が逆に労働の肥大化に | 
| 結びついたということも言えるであろう。産業用ロボットの使用やベルトコン | 
| ベア方式といった労働の効率化は労働者の仕事の単純化を生み、労働時間の延 | 
| 長に結びついている。中国では国営工場の民営化が進められているが、ある薬 | 
| 品工場では、以前には手作業で行われていた薬ビンの蓋締めが機械化された変 | 
| わりに労働時間は大幅に延長された。しかしパソコンによる通信技術の発達な | 
| ど、仕事を効率化させるための機器の進歩は、仕事と生活の両立を達成する大 | 
| きな可能性を持っていると言えるであろう。 | 
| 確かに、キリギリスのように労働は、一家団欒と言った「生活」に比べてつ | 
| まらぬ物だという意見も偏った考えであると言わなければならない。現在の生 | 
| 活自体が労働によって生産された「カネ」や「モノ」によって成り立っている | 
| ことは確かである。「労働」を前提として、しかし「生活」の場の豊かさに重 | 
| きを置いた社会を作って行くべきであろう。 | 
| 餌を求めて飛び回りはする。しかし生活に優雅さを失わないチョウのような | 
| 社会が求められている。 |