| 鳩や烏の害 |
| アジサイ | の | 道 | の広場 |
| 冨田 | / | あよ | 高1 |
| 水色の空の下に広大な森が広がっている。その森の中では、高い木々が我々 |
| を見下ろし、鳥の鳴き声がこだましている。「このような美しい森は人間の身 |
| 勝手な行動によって失われつつあります。このような森を次世代のために残し |
| ていきましょう」最後にこのようなナレーションが入り番組は終わる。我々は |
| エアコンの利いた部屋で感動と多少の腹立たしさを覚えながらチャンネルを変 |
| えるのである。 |
| しかし北海道住在の漫画家、はた万次郎は言う。「北海道ではきのこ狩りだ |
| けで毎年何人も死ぬ。」自然はおそらく我々の思うほど人間にとって良いもの |
| ではない。我々はブラウン管を通して加工された自然、それも家の裏にある山 |
| でなくアマゾンのジャングルを自然だと思っている。しかしじめじめしていて |
| やぶ蚊の飛んでいるような「汚い自然」よりも我々がどこかにある遠い「きれ |
| いな自然」を望むのは都会人の必然であろう。人間には距離が離れていれば受 |
| け入れられるが、その隔たりがなくなると対立感情を持つということが往々に |
| してある。若者と高齢者、自国と他国、人種、男性と女性、例をあげれば切り |
| がないがこれらが相互理解をしようとしてもなかなかうまくいかないのはこの |
| 「ハリネズミのジレンマ」が大きく絡んでいるからであろう。相互理解を達成 |
| していくには自分と相手が違うということを前提として共存していくことが必 |
| 要である。 |
| ではどうすれば良いのであろうか、それにはまず自分を知ることである。外 |
| 国人の日本史研究家は多くの場合、知識の点で日本人の歴史家に劣る。ただ、 |
| 自国の歴史をよく学んだ外国人の日本史研究家は、自国の歴史を通して得た歴 |
| 史の普遍性を基礎に、優れた見解をすることがあると言うことを聞いたことが |
| ある。自分がどのようなものであるか分からなければ対象との隔たりがなくな |
| ったとき自分を基に相手を理解し受け入れることは出来ないであろう。 |
| だが現実の社会は対立を避けるために相互理解自体を避ける傾向があるであ |
| ろう。バスのシルバーシートなどその典型であると私は思う。確かに高齢者を |
| 優先すると言う考えを広めるには良いかもしれない。しかしシルバーシートと |
| いうガラス張りの空間を作るのはいかがなものか。老人は混んでいようと何食 |
| わぬ顔で優先席という名の指定席に座る。このような老人と若者の間に隔たり |
| をもった関係では譲り合いという概念はいつまでたっても育たぬであろう。譲 |
| られているという感覚を持たぬ老人と若者を生み出すだけである。 |
| 確かに他人との距離を取っておいた方が関係はうまく行くことは多い。宇宙 |
| に行っている妻を持つ文学者の夫が新聞に何回か出たが、事実、年に数回しか |
| 会わぬ関係の方が夫婦の仲はうまく行くようである。しかし国際化にしろ自然 |
| 環境の問題にしろこれから相互理解をせざるを得ない問題はますます多くなっ |
| ていくであろう。その中で影響を与え合いはするが互いを認め合う関係を築い |
| ていくことが求められている。人間と対象とののあり方は「手付かずの自然」 |
| でも「都会」でもない「水田」の関係であろう。 |
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