ヘチマ2 の山 1 月 4 週
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○自由な題名
○私の夢
★清書(せいしょ)

○釈迦、キリスト、ソクラテス
 【1】釈迦、キリスト、ソクラテス、孔子等の語録を読んでだれでも気づくことは、その多くが対話の形式をとっているということである。とくにプラトンの著作はすべて対話編と呼ばれているように対話が中心になっているが、経文も論語も、バイブルもその中には対話的要素が少なくない。【2】とくにプラトンの対話編をみると、宗教、哲学、文学などと分化しない以前の、そのいっさいが一つの生命において把握されているそういう一種の原始性がある。現代ではあらゆるものが分化し、細分化されつつあるが、その以前の状態のもつ全人性といったものを私は尊重してきた。【3】ここに生ずる対話の精神は現在は消滅したのではないかと疑われる。
 私はきわめて初歩的な問題として提出したいのだが、読書とは要するに対話の精神の所産ではないかということである。ごく簡単にいうと、つまり疑問を持つということだ。【4】それがどんなに幼稚なものであっても、人間が青春時代に達すると必ず人生や社会や、あるいは自分自身の生存の仕方についてさまざまの疑問を抱く。疑問を抱き疑問を表現するということが考えるということの始まりなのであって、当然その疑問に答える人を求めるわけである。【5】プラトンの対話編や、孔子でも釈迦でもソクラテスでも、その語録を読むと、すべて何ものかから疑問を投げ与えられ、それに対して答えるという形式をとっている例が多い。あるいは質問した人間に向かって逆に質問する。【6】それによってその人の抱いている疑問に明確なかたちを与える。つまり問題の問題であるゆえんをはっきりさせるのだ。書物が存在したとしても、まず現に生きている師に出会って、その師の口からの直接的な問答体によって「自己」を発芽させる方法がとられたわけである。
 【7】さきに述べたようにプラトンは書物にあまり重きをおかなかったにもかかわらず多くの書物を書いたが、しかし彼の本来の仕事はアカデミアにおける研究、あるいは弟子たちとの問答による教育という点に主眼がおかれていたわけで、書物そのものの占める比重∵は、今日から考えるとかなり小さかったと思われる。【8】この状態を、書物に対してもできるだけ応用してみることを私はすすめたいのである。もっともプラトンが指摘したように、こちらで問いかけても書物というものは同じ言葉をくりかえすだけで何も答えてはくれない。【9】疑問を抱いて接しても、明確な答えが直ちに得られるとは限らない。
 たしかに書物の限界にはちがいないが、だから書物は不用だということにはならない。この限界があるからこそ、逆に書物に対する我々の無限の探求が始まるわけである。【0】これは、田中美知太郎氏も指摘しておられる点で、プラトンの真意を知るためには、あらゆる種類の解釈、考証、共同研究等が求続的に行われなければならなかったし、そのために読書力が深まった、と。

 (亀井勝一郎『読書論』(旺文社))