ヘチマ2 の山 2 月 3 週
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○自由な題名
○バレンタインデー、もうすぐ春が


★(感)一を聞いて十を知る
 【1】「一を聞いて十を知る」
 十のうちの一を聞いただけで全体を知る。つまり、賢いことを意味している。まるで日本の格言のようになってしまっているが、じつは「論語」に記された言葉である。弟子である顔回の聡明さを、師の孔子がそう評したのだ。
 【2】だが、ぼくはこの言葉こそ、日本文化の性格を端的に言い当てた表現とみなす。と言っても、日本人が無条件に賢い、というわけではない。日本人の発想形式を、この言葉が見事に言い当てている、というのである。どのように?
 【3】日本人は多弁や説明を嫌う。日本の詩を代表する俳句をみれば、それがよくわかろう。たった十七文字で詩的世界を表現しよう、などという文学の形は、世界のどこを探してもない。このような形式が成立するところに、「一を聞いて十を知る」日本的性格が遺憾なく示されているではないか。
 【4】日本的風土からもっとも遠いのは、おそらく砂漠地帯だろう。湿潤で四季に恵まれた日本とは正反対の乾ききった広大な砂の世界。ぼくは、その砂漠へ何度となく足を踏み入れた。そして、その都度、あらためて日本的風土を強く意識することになった。
 【5】ある夏。オアシスでの午後のこと。真昼の、悪魔のような太陽を避けて、わずかなナツメ椰子の木陰に身を寄せて横になった。 ぼくは退屈しのぎに、日本から持ってきた文庫本のページを繰っていた。そんなぼくの姿をめざとく見つけて、トゥアレグ人がやってきた。【6】彼らも時間をもてあましていたのである。
「それは何だ? コーランか」と、そのうちの一人が聞いた。
「いや、日本の、有名な詩人の詩集だよ」と、ぼくは答えた。ぼくが手にしていたのは「芭蕉俳句集」だったのである。【7】日本とまったくちがった風土で、日本を感じさせるものを読むのが、ぼく流の旅の仕方なのだ。
「ほう、どんな詩かね」と、もう一人が聞いた。
 彼らはフランス語と片言の英語をしゃべる。ぼくは弱った。【8】が、無理をして「古池や蛙(かわず)飛びこむ水のおと」を、なんとか訳し∵てやった。みな、うなずいた。どうやら通じたのだ。
 しかし、そのあとがいけなかった。というのは、「それで?」と目を輝かせて、彼らはつづきを待っていたからである。
【9】「それだけさ」と、ぼくは言った。だが、彼らは納得しない。蛙が水に飛び込んで水音がした、ということは了解したのだが、彼らにしてみれば、それはたんなる事実にすぎず、詩などとは、とうてい受けとれないからである。【0】(中略)
 なにも、サハラの奥だけではあるまい。たぶん、世界中どこへいっても、こうした芭蕉の句は同じような反応を引き起こすことだろう。なぜなら、ほとんどの民族は、十の説明から一つのものを導き出す、というのが普通なのだから。(中略)
 これは俳句にかぎったことではない。日本的会話、日本的論議、すべてにわたって言えることだ。そこで、日本人は一を言って、相手に十の理解を求めることになる。
 だが、世界は、こうした日本的な直感的思考とは、ほど遠いところにある。それなのに、グローバル・コミュニケーション時代のいまに至ってもなお、日本人は直感形式のコミュニケーションですませようとしてしまう。
 重ねて言うが、西欧はじめ、日本以外の文化圏では、「一を聞いて十を知る」ではなく、「十を聞いて一を知る」のである。それは、理解力が足りない、ということではない。人間同士の関係において、それだけ「十分な説明」が重要視されている、ということなのだ。
 言葉をつくして、自分の考えを相手に理解させ、相手からも十分な言葉によって情報を得る。それが日本以外の、世界のルールである。この点で、日本はたしかに「異質」だと言える。では、どうすべきか。
 日本人が説明上手になるしかない。いままで一ですませてきたものを、十の言葉で説明して相手に理解させることだ。言葉の壁は、こうした文化的背景の違いにある。だから、ぼくたちがどれだけそうした差異を自覚して相手に接するか、ということにつきよう。
(森本哲郎『この言葉!』)