ムベ の山 12 月 1 週 (5)
★人は二足歩行で(感)   池新  
 【1】人は二足歩行で手を解放し、その手に道具を扱う役割を持たせ、それを発達した大脳で制御するという方法によって、急速に強い優勢な動物になった。【2】それが言葉とならぶ異常な加速進化のもう一つの理由であったのだが、それはともかく、強くなったために狩る立場に立つことはあっても狩られる側にまわることはほとんどなくなった。【3】そして、最近では事故や病気で死ぬことさえ最小限に抑えられ、現にわが国などは、平均寿命において世界一の数字を誇っている。【4】医学という蓄積可能な知識の体系によって死亡率を下げることが比較的容易であることはあきらかで、それに対して伸びた寿命の中身を充実させて幸福な老後を送ることは大変に困難らしいが、ここではそういう面には触れないでおこう。【5】いずれにしても、われわれは狩られる感覚をすっかり忘れてしまった。だから自分より強くて速い相手に狩られることはそのまま極端な不幸であるという単純な認識にこりかたまってしまっている。
 【6】喰われることは不幸である。それは生命というものが個体にのみ宿り、あらゆる努力を払って個体の存続をはかることが生命の第一原理である以上は当然のことだ。【7】しかし、追われる立場で動物としての知恵をしぼって相手をまくこと、いやもっと危なくぎりぎりまで追いすがられて、自分の脚力だけをたよりにからくも逃げきること、相手の存在に一瞬早く気付いて巧みに回避することにさえ、大いなる喜びが込められているのかもしれない。【8】そういう時にこそ弱い動物は自分が生きているという実感を改めて感じて幸福感を味わうのかもしれない。
 動物の場合、われわれとは死の概念自体がずいぶん違うのではないかと思うのだ。【9】この場合の動物という言葉には、現代文明の中で生きるわれわれのような人間以外のすべての哺乳類を含める。つまり、先ほど書いたような、動物たちとの交感関係にある狩人たち、動物と同種の知恵によって生を維持している人々もわれわれの側ではなくそちら側に入れたいのだ。【0】彼らにとって死とは、∵衰弱した精神が描く単純で強烈な恐怖の源ではない。われわれの精神は死という言葉を聞いただけで毛を逆立てる。想像力は自分たちのみじめな姿を求めて暴走をはじめる。だが死とは、本来、一つの成就、一つの完成、一つの回帰である。自然から遠く離れて個の概念を立てすぎたために、個体の意識を離れてはすべてが無であるという考えがすべてを圧倒し、ひたすら個体にしがみつくことが至上命令となった。死はエゴの駆動装置になりさがってしまった。果たして、生きることではなくただ死なないことに、それほどの意義があるのだろうか。(中略)
 肉食獣に追われて逃げきるか喰われるかは一つのゲームである。何度勝った者も最後には敗れる。自然界には自然死という言葉はない。老衰もない。動物はみな捕食者であると同時に獲物であり、絶対の優位にたって喰うだけという動物はいない。そして、彼らにあるのは事故死と病死だけだ。それがそのまま不幸でないのは、そのことが生そのものの基本条件だから、生というものが最初から死をその中に含んでいるから、生きるものはそれを承知しているからである。死は常に目前にあり、誰もそれを忘れたふりをしたりはしない。動物はみなこの危険なゲームに参加し、興奮と高揚を味わい、常に危機を予想し警戒しながら、さしあたり目前の若い青い草の味を楽しむ。(中略)そういう濃密な時間の内にこそ死は正しい形で用意されている。それを承知の生命ではないのか。(中略)
 動物は愚かだから悩みがないと言うのは間違いだ。動物たちはお互いに大きな知恵を共有することで個体のエゴを制限し、そこにちゃんと安心立命を見出している。その場その場で力を尽くすだけで、それを超える不安があることに気付きもしない。本当はそんな不安などないのではないか、と考えることができたら人間もまた彼らの境地にもう一歩なのだが、それは容易なことではないらしい。近代の宗教がまことしやかに語るやすらかな最期や大往生の準備とは、実は失われた野生動物と狩猟民族の精神の回復ということではないのか。