ニシキギ2 の山 9 月 1 週 (5)
○明快な文章を(感)   池新  
 【1】明快な文章を、というのは、ただわかりやすければいいというのとはすこし違う。戦後ずっと、わかりやすく書けと言われてきたけれども、そのわりに文章は平明にはならなかった。字づらはやさしくても、ふにゃふにゃして、とらえどころのないような文章がふえた。【2】明快な文章は、骨を持っていなくてはならない。筋道が通っている必要がある。つまり、論理的であって、しかもわかりやすい、それが明快な文章ということになる。
 【3】この論理的というのが問題である。どこかに客観的な論理なるものがあって、それに則ってものを書き、言うことのように考えている人がすくなくない。それなら、イギリス人の論理もエジプト人の論理も、日本人と同じでなくてはならない。【4】たしかに、ごく基本的な次元では世界中が同一原理に支配されている。しかし、論理にはもっと人間的な論理もある。言葉で表現される論理は、一プラス一が二になるような数式に比べてはるかに柔らかい論理で、柔らかい論理は、民族の文化や言語によって微妙に違うのがむしろ正常である。【5】だからこそ、完全な翻訳ということがむずかしい。数学の式なら翻訳を要しない。
 一方、日本語の文章がわけのわからぬものになりやすいのも事実である。【6】論理的にできるものなら論理的にしたい。それかと言って筋道さえ通っていればいい、明快ならよろしい、という文章観で割り切ってもらってもわびしい。
 【7】川の水が濁っている。底が見えない。この濁りをすっかり取ってしまえ、というので清水にしてしまったらどうか。透明にはなるだろうが、清水に魚すまず、川かならずしも水の清さをもって尊しとせず、である。【8】文章も同じこと。あまりごたごたしていれば、一度蒸留水のようにすっきりしたものにしてみたいと思うのは人情であろう。方向としては結構だが、それがそのとおり実現し∵たら、ことである。「過ぎたるはなお及ばざるがごとし。」である。
 【9】古来、われわれの言語表現は、含みを重んじてきた。「言い尽くして何があろう。」と言った芭蕉も、魚のすめなくなるような清水ではしかたがないと考えたのである。【0】古くからあいまいを美学としていた。にもかかわらず、われわれはいま芭蕉の考えを捨てて、表現を透明にすることに関心を向けている。おそらく、これは、それほどむずかしいことではなかろう。たしかに、よけいなものを取ってしまって、ぎりぎり言いたいことだけ言えば、いわゆる名文にはなる。だが、文章をそんなふうに裸にしてはみっともない。適当に着物をきせている方がおもしろいのである。

(外山(とやま)滋比古(しげひこ)「日本の文章」より)