ガジュマロ2 の山 5 月 2 週 (5)
★「民族」と「国家」の違いを(感)   池新  
 【1】民族と国家の違いをはっきりとしておく必要があります。日本では、指導的な政治家で「日本は単一民族国家だから……」ということをいまだに何度でも言う人がいますけれども、これは事実に反します。他国と比べて一つの民族が占めている割合が圧倒的に大きいことは確かです。【2】しかし、九七年の札幌地裁の判決は、アイヌの人々を少数民族集団として法的に認定しました。いわゆる二風谷(にぶだに)裁判です。それから同じ年に「アイヌ新法」と俗称される長い名前の法律「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」ができました。
 【3】つまり立法府や裁判所は、日本が単一民族国家でないということをはっきり法的に確認しているのです。そのほか私たちの身近なところに、外国出自の日本国籍所有者の人々も――日本国籍を持っていない外国人の処遇の問題は、また別の問題ですが――たくさんいるのです。
 【4】近代国家をつくっているのは民族ではなくて国民なのだということを、国家と個人の関係を考える場合の大前提にしなければいけないのです。その辺の筋目があいまいなままの議論が多いのではないだろうか、と日ごろ感じています。
 【5】その上で国家と個人それぞれにとって、最近、国境の敷居が低くなってきている。プラスとマイナスの両方含めてです。独裁者も、国境の壁に守られて安閑としていられなくなっています。アジアの独裁者があっという間に権力を失うという例が続きました。
 【6】しかし、国境の壁が低くなれば、批判の自由が入ってくると同時に、他方で経済万能の力が入ってくるということにもなります。これまで、それぞれ国民国家単位でいろいろな試行錯誤を経てつくり上げてきた生活のための条件が大波に洗われる。【7】雇用の条件、社会保障の水準、年金制度、こういうものが「経済のグローバリゼーションの中で立ち行くためには、そんなぜいたくなことは言っていられないぞ」という形で押し流されはじめます。∵
 そういう理由で国家というものの影がだんだん薄くなってくる。【8】国家の影が薄くなると、お金とか宗教とか民族とかこういうナマの力が、公共社会をそれだけ強くつかまえることになります。考えてみれば近代国家は、まず宗教から国民を解放しました。次に、一九世紀以降、とりわけ二〇世紀に入ってきますと、お金の力を相対化させるために、生存権とか労働基本権とかをつくる。【9】特に複数の民族が共存しているようなところでは、それがぶつかり合わないために、たとえば連邦制というようなものを工夫してきました。
 宗教とかお金とか民族は、それぞれはもちろん価値のあるものです。【0】しかし、それとしては価値のあるものだけれども、民族とか宗教とかお金とかが丸ごと公共社会を乗っ取ってしまってはいけないでしょう。
 スイスのある学者は、「国家を民族の人質にしてはならない」という言い方で、問題を鋭く指摘しています。その傾向に対してどういう歯どめをかけるか。言うまでもないことですけれども、今世界中で悲劇のもとになっている宗教の争い、あるいは民族紛争というのは、国家が強過ぎるからではなくて国家が弱いからです。場合によっては、国家がそういう宗教とか民族にハイジャックされ、その意のままに動かされている。
 それに対して、本来ホッブズ以来の社会契約の論理が私たちに説明してくれたような国家を復権させる。最近の論壇では国家は非常に評判が悪く、国家の相対化は非常に評判がいいのですけれども、今言ったような側面を踏まえた議論でないとおかしなことになります。
 国家が出てくるべきところで出てこないで、本来は出るべきでないところに出しゃばる。これが前に触れた一九九九年の「国旗・国歌法」の立法過程で問題にされたことです。
 国民経済をグローバルスタンダードの荒波から守る場面では「国家は、もう何もしないよ。みんな自助努力でやりなさい」と言いつつ、「日の丸・君が代は、ちゃんとやらなくちゃだめだよ」という取り合わせになっています。本来はその逆でなくてはいけないのではないかということです。(以下省略)
 
 (樋口陽一『個人と国家』)