ギンナン の山 7 月 2 週 (5)
★大昔、この列島は(感)   池新  
 【1】大昔、この列島は豊かな原生林に覆われていた。祖先たちはそうした森のなかに住み、神々といっしょに生活していた。やがて農業をはじめると人びとは森を離れ、開かれた耕地で太陽の光を身体いっぱいに浴びながら、一日をすごすことがだんだん多くなった。【2】原生林のなかで獲物を追う生活をやめれば、住居も森から出て耕地の近くにつくられるようになる。人間が出たあと、神さまだけが森のなかに残った。これが神の住む神奈備(かんなび)の森のはじまりである。【3】しかし、この変化は、けっして一朝一夕に生じたのではない。森のなかでの狩人たち、とくに日本のような海洋性気候の、暖地性照葉樹林帯のなかでけものを追ってきた人たちの皮膚感覚は、一日中、耕地で陽光を浴びてすごす農業人とは根本の体質が違っていたはずである。【4】日陰の湿気のほうにより安心感を抱くような背日性を、農業人の向日性とは対照的な形で備えていたと考えられる。
 【5】祖先たちは原始林のうす暗く、たえず湿気を帯びた樹木の陰から離れ、明るく乾燥し、開かれた場所でひとり立ちするには、よほどの決心を必要としただろう。もちろん、その農業も、水稲耕作に依拠する以上は湿気と無縁ではありえない。【6】しかし、水田や畦道の泥濘(でいねい)と、原生森のなかの陽光から遮断された全身をつつむ湿気とは、本質的に異なっている。祖先たちの身体には水田で働くようになったのちも、森のなかに生きていたときの皮膚感覚は久しいあいだ残留したろう。【7】森からの自立は、母の胎内からの自立過程に似て、意識、無意識のうちにさまざまの退行心理が発現するのは、まことにやむをえないことであったと考えられる。
 【8】農家の土間の台所や、ナンド、ヘヤとよばれる寝室には、すでにのべたように多くの素朴な神さまたちが住みついて、人びとといっしょに生活し、文字通り起居をともにしてきた。そのありようは、おそらく原始時代に原生森のなかで営まれた祖先たちの住居のなかに起源をもっている。【9】とすると、そうした住居をとり囲む木立のなかに住んでいた神々も、そのまま人びとの生活を守り、住居を守って外敵を防いでくれる神々として、住居の周辺にいつまでも∵いてくれるように願われたろう。【0】森のなかに村があるような形のものはもちろんのこと、耕地に囲まれた広くて明るい場所に家を建てるようになってからでも、周囲に家を保護してくれる屋敷林をもち、それに精神的な防壁の意味までもたせてきたのは、森のなかで神さまといっしょに住んでいた時代の、最後のへソの緒(お)であるように思われる。土塀や生垣に囲まれるだけで、外界にむけて自己を完全に開放しているような家でさえ、しばしば屋敷廻りの大木の根もとに屋敷神の小祠(しょうし)をもっている。これのもとづく起源も、おそらく古いものがあるといえよう。
 ともあれ、明治以後、西洋風をまねてふとんに白いシーツを掛けることは、寝室内部にまで日光と外気をもち込もうとする大変革の象徴であった。うす暗く、外気を通すことの少ない寝室の、シーツもかけない垢じみた万年床、その木綿ぶとん特有の湿気をおびた肌ざわりは、大多数の日本人が久しく馴染んできた住居における私的な生活感覚の、中心部を占めてきた。ふとんを日に干すのが近代的家政の象徴であることを裏返したら、こういうことになるだろう。それは木綿ぶとんの普及する以前の、帳台構えなどとよばれるナンドの寝部屋での、ワラにもぐって寝た感覚の残存であり、それであるから、万年床があたりまえとされてきた。だが、そのような感覚は、これをさらに煎じつめると、大昔、この列島に特有の濃密な照葉樹の原生森のなかで有形無形の外敵におびえ、神々といっしょにつねに湿気をふくんだ薄暗い木陰に身をひそめていた時代の、もっとも根源的な生活感覚にまで遡るように思われる。屋敷をめぐる屋敷林、さらには森のなかにある村といってよいほどの木立に包まれた集落のたたずまいは、その傍証といえるだろう。

(高取正男「生活学」 同志社大)