ギンナン の山 8 月 1 週 (5)
★オイル・ショックが生じた時(感)   池新  
 【1】オイル・ショックが生じた時、これで日本もおしまいだと思った人たちは、日本の内外を問わず、沢山いたと思います。【2】石油資源をすべて外国に依存している日本は、もっともひどく打撃を受ける国であり、日本商品は割高になり、輸出は激減し、国際収支は大赤字になって、失業者は巷にみちあふれる。多くの人たちはこういう事態を予想したでしょう。
 【3】私自身も、あの一九四五年八月十五日の真夜中に、桜島の南の垂水海軍航空隊の野天風呂(風呂の建物は、爆撃ですっ飛んでいたので、見事な野天風呂になってしまっていた)にはいっていた時のことを、おもわず思い出しました。【4】私はちょうどその前日に、佐世保の針屋海兵団から転勤して来たばかりで、隊の事情には暗かったので、従兵に風呂はどこかと聞きますと、案内してくれて、「背中を流しましょう」といいます。【5】「戦争がすんだのだから、もう他人の背中など洗うな」といったのですが、「分隊士が最後です」というので、お世話になりました。垂水航空隊というのは、鹿児島湾の海辺にあって、片方は山、片方は海の約三、四〇〇メートルの狭い平地に、細長く作られていました。【6】海風が吹いて気持ちよく、月が丸くて、こうこうと照っていたのを覚えています。
 待ち望んでいましたが、全く思いがけずやって来た平和に、私たちはどうしたらよいかわかりませんでした。【7】すべて静かで、夜おそく風呂を使う水音と、波の音と、私たちの時々の会話の他は、全く何の音もありませんでした。【8】しかし、それから数日たって、第五航空艦隊司令長官の宇垣中将が、彗星(海軍の爆撃機)に乗って、沖縄上空に、特攻隊員のあとを追って自爆したことが判明しますと、四国九州方面の海軍部隊は、指揮官を失って壊滅し、算をみだして兵隊も、士官も、めいめい勝手に復員してしまったのです。【9】復員といえば人聞きはよいですが、実際には逃亡以外の何物でもなかったのです。私もその一人でした。そして、それが戦後のはじまりだったのです。【0】
 それから、終戦直後の流行歌「リンゴの唄」があって、プロ野球の大下や川上の青バット、赤バットが現れて、歌手の笠置シヅ子の∵「ブギウギ」の歌が出てと、過去から現在にむかって思い出の糸をたどり、最後にオイル・ショックにつき当たった時、「可哀そうな日本よ」とおもわずつぶやかざるをえませんでした。その時、私がロンドンの大通りを歩いていなかったのなら、涙を流していたかもしれません。
 それほどオイル・ショックは深刻でした。私がなまじっか経済学を勉強しているからかもしれませんが、「これで日本もおわりだ」というような気持がしたのです。対日石油禁輸の結果、数か月間の艦隊行動をすれば帝国海軍の石油保有量ゼロになることが明白になった段階で、海軍もついに決戦を決意して、太平洋戦争がはじまったのですから、オイル危機が日本にとって歴史的な重大事件であったと考えるのは、何もおおげさではないと思います。
 しかし、驚くべきことに、結果は全く逆でした。苦しい時期も一時ありましたが、現在では、日本はオイル危機以前よりも、相対的には、かえって強くなっております。無意識的に、経営者と労働者が一致団結したのかもしれません。もちろん現在でも、日本もその他の諸国も、オイル危機の後遺症に悩まされていますが、それらの国のうちでは、日本は一番、調子よく行っている国であります。何はともあれ、世界の諸国は、いまや日本の底力を完全に承認しており、オイル危機以後、日本の地位が格段と上昇したことは、まぎれもない事実であります。
 これは驚異的な成果であり、全く、うれしい誤算であります。しかし誤算は、もう一つの誤算をひき起こしました。高くなった石油購入費をまかなうために、輸出にはげまなければならないことはきわめて当然ですが、オイル・ショックで沈滞した国内需要の分までも、輸出でカバーしようとしたので、輸出が予想外に伸び、日本では国際収支が逆に黒字になってきました。しかもこの輸出が数種の品目に集中して、ヨーロッパ諸国を襲いましたので、ヨーロッパでこれらの品目を生産している地方の失業問題をひき起こし、日本を締め出せの声が、弱体の経済に悩む英国においてのみでなく、好調のはずのドイツでも高まってまいりました。いわゆる貿易戦争が勃発したのであります。(関西学院大)