ギンナン の山 8 月 3 週
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○自由な題名


○In an age when reading(感) 英文のみのページ(翻訳用)
In an age when reading for most people is a nonintellectual pleasure, and when at the same time there is a constant stream of books falling from the publishers' presses, a book has only to be barely readable once in order to serve its purpose. It need not be reread, nor does it need to lie in the mind as a source of future pleasure. It thus ceases to matter whether a book is memorable; and when literature is not memorable it is nothing. Total illiterates who depend on folk literature for their pleasures of the imagination are thus much better off than semiliterates who read forgettable novels merely because they are available. Oral literature must lie in the mind, for otherwise it would be forgotten; but most modern written literature is expected to he forgotten, in order to make way of the next season's list. That is one reason why we feel that modern books are different in kind from "the classics.
The fact is that literacy itself is a means and not an end, and it can be put to uses which may be good, bad, or indifferent. A book may be read for a great variety of reasons. But the reason for which a book is read determines the way it is read and to so1me extent the degree of illumination it is possible to get from it. All books should, of course, be read for pleasure, but "pleasure" is not a helpful term here, for it has so many meanings. There are many kinds of pleasure, intellectua1 and nonintellectual, and even many kinds of intellectual pleasures. The appreciation of literature involves a very special kind of intellectual pleasure, in which the intellectual element is not always directly manifested and where the faculty which critics have come to call the imagination plays a complicated and not always definable part. The ability to read does not by itself guarantee the ability to enjoy that kind of pleasure; it has, in fact, no particular connection with it at all except that it provides the technique for communicating it to those in a position to receive it. Like patriotism, literacy is not enough.

★科学が人間にもたらすものには(感)
 【1】科学が人間にもたらすものには多かれ少なかれ必ず明暗両面が存在する。前世紀末のダイナマイトの発明者ノーベルの苦悩に象徴されるように、これは決して最近始まったことではない。【2】しかし、過去数十年の科学技術の進歩はあまりにも速く、人間と社会とに軋轢を生じてきている。不可能が可能になり、また、より多くのことが明らかになってきた一方で、ものごとの本質は単純ではなく、シロかクロかを言い切れないことも明らかになってきた。
 【3】たとえば、科学の進歩により生と死との間のグレーゾーンが拡大した。凍結した精子による人工受精が可能となり、親や世代の意味さえあいまいになっている。【4】遺伝子診断、遺伝子治療は新たな生命倫理の問題を提起している。これ以外に環境倫理、電子情報倫理とでも名付けられる新しい問題も生じてきている。
 先進国の社会構造も変わりつつある。【5】社会がある程度豊かになり市民の権利意識が高まってきた結果、判断が個々の人にゆだねられる場合もできている。罹病率と予防接種禍率を比べてわが子に三種混合ワクチンを接種させるかどうかの判断を下すのは親である。【6】インフォームド・コンセントがとられるようになってきているが、科学の進歩で一層複雑になった医療現場において、ある治療や診断を受けるかどうかを最終的に決断するのは、本人ないしその家族である。
 【7】来世紀にますます深刻になる地球環境・資源・人口・エネルギー問題についても、一人一人に自分の問題としての思索と決断が求められてくるだろう。【8】科学技術の進歩ゆえにいっそう複雑になっていくこのような問題に対して、どうすれば感情論や上滑りの議論に流されることなく、科学的知識と広い視野に立った自分なりに納得のいく判断が下せるのだろうか。【9】そのためには、科学と社会を結びつける良質の情報が必要である。それを自分の行動に役立てていかなくてはならないし、場合によっては、自ら発信者となることも大切である。
 【0】残念なことに、科学者が出した成果はそのままでは判断材料として役立たないことが多い。専門用語ゆえに科学はとりつきにくい。良質の情報には優れた表現能力も必要とされる。研究に専念している科学者には時間的余裕がないのが普通であり、研究の社会的∵意味も忘れられがちである。
 そこで、最先端の科学の研究成果とその社会的意味を科学に慣れ親しんでいない人に、(社会的意味については科学者にも改めて)説明してくれる人材、つまり科学の「インタープリター」が必要となる。「インタープリター」は専門用語の単なる直訳者ではなく、問題を指摘し進むべき方向を示唆する、科学と実生活の橋渡しをする解説・評論者である。
 まずは科学の面白さを伝えてほしい。科学のマイナス面あるいは生活の利便性に貢献する面ばかりをセンセーショナルな言葉で強調せず、本質的な理解に基づいて生命現象の素晴らしさや量子の世界の不思議さ、宇宙の深遠さを語ってほしい。現在の科学は、何十億年もかけて作られてきた宇宙や生命のなぞのほんの一端しか明らかにしていないこと、科学による知的創造が人類の未来には不可欠であることも訴えてほしい。
 小さな成果も多くの科学者の地道な努力の積み重ねである。実験現場では、実験条件、実験対象の状態、誤差など種々の要素を考慮に入れなくてはならず、結論を単純には出せない。また、例外にこそ面白さがあると実感するが、このようなことを理解できる人であってほしい。脳死を議論するとき、脳波の有無といっても実は測定機器の検出限界や脳内の測定部位によるのではないか、といった疑問を持つことのできる人である。もっと一般的な場合では、確率や平均値などの数値を鵜呑みにせず、その定義や算出方法を考えてみることのできる、つまり科学的思考のできる人である。

(東京理科大)