グミ2 の山 10 月 2 週 (5)
★植民地主義イギリスの(感)   池新  
 【1】植民地主義イギリスの紀行文学の根強い伝統を論じた著作『海外へ』のなかで、イギリスの批評家ポール・フュッセルは旅人を「探検家」「トラヴェラー」「ツーリスト」の三種類のタイプに類別している。
 【2】「探検家」とは、フランシス・ドレーク卿やエドモンド・ヒラリー卿のように、しばしば爵位をもってその活動を顕彰されるようなタイプの旅人である、とフュッセルは言う。【3】いかなるトラヴェラーもツーリストも、彼らのなしとげた行為によって爵位を贈られる、というようなことはない。トラヴェラーやツーリストの旅が探検家のそれと同じ程度に困難で記憶されるべき内実をそなえたものであるとしても、それは「行為」として本質的に探検家の実践とは意味づけを異にしているからだ。【4】「探検家」は未知の探求者である。彼らの旅は処女的発見のための旅であり、その地理的・博物学的・考古学的発見の行為は新しい科学的世界像の形成と深く結びついている。彼らは死の危険をすら冒して未知を彼らの世界の側に奪取する文化英雄たろうとする。
 【5】一方現代の「ツーリスト」の求めるものは商業主義的な企業家によってあらかじめ発見された大衆的価値である。ツーリストはマスメディアの巧妙なプレゼンテーションによって彼らのために準備されたルートとトポスとをめぐる、現代の受動的な好奇心を代表している。【6】探検家がかたちのないもの、知られざるものと対峙するリスクを進んで冒そうとする人々であるならば、その反対にツーリストは徹底して既知の側につき、すでに確認された紋切り型の「知識」を安全性の保証のもとに追認するにすぎない。
 【7】そしてこの探検家とツーリストの両極の中間に「トラヴェラー」がいる。彼らは移動の途上で生起するであろうあらゆる予期せぬ経験を旅の長所として留保しつつ、一方で彼らの西欧的アイデンティティが揺らぎだす手前で巧妙に旅の混沌から身を引き離す。【8】彼らは自分がいまどこにいるのかを熟知しつつ、世界∵放浪のロマンティックな動機に過渡的に身をまかせることのできる旅人なのである。適度な異国趣味と適度な冒険を内側から支える安定した「世界」像のなかで、トラヴェラーは時代の経済原理をたくみに利用しながら旅してゆく……。
 【9】フュッセルは「トラヴェラー」に一つの旅人としての理想のスタイルを見出そうとしている。探検家とツーリストという、旅の始まりと終焉の実践の両極をわたる中庸の旅人のなかに、真正の旅人へのレクイエムを聞きだそうとしている。【0】だがここで重要なのは、探検家であろうとトラヴェラーであろうとツーリストであろうと、およそフュッセルの描きだす旅のトポグラフィにはつねに特定の起点と終点があらかじめ想定されているという事実の方である。探検家にとっての旅の起点も終点もきわめて明瞭だ。ヨーロッパの中心から国家の期待を背負って旅立った彼らは、ふたたび彼らの都市へと凱旋する。彼らの冒険物語を語り、撮影した処女地の写真を展覧し、爵位を授けられるために……。そしてその点において、トラヴェラーとツーリストもじつは変わることがない。トラヴェラーの詩的なヴァガボンドの物語はあらかじめ文明世界において語られるためにこそ体験されるのであるし、ツーリストも保証された帰還をすべての前提として土産を購入し、エキゾティックな土地の一時的占有を示す絵はがきを郷里の友人に旅先から送って彼らの知的戦利品としての風景を誇示するのである。
 こうして旅は家と外国とを空間的に峻別することでその内容を盛られてきた。自己と他者が明確に差異化されることによって、西欧的旅人の主体性はアイデンティティを維持しつづけることができた。だが二十世紀末の現在、ギリシャの旅人=理論家の末裔たちは彼らの思考と表現の基地・中心地としての「家」を失いつつある。安定した起点と終点を喪失した現代の旅の実践は、旅を日常の生から聖別された感覚と思考の閉鎖的領域から解き放った。旅の遂行の途上で、現代の私たちは自己と他者の不思議な混交を体験し、場所の奇妙な溶解に立ち会うことになったからである。旅その∵ものが安定したアイデンティティの実践であることをやめ、行方のない彷徨を開始したのだ。
 旅の物語を語ろうとする私たちは困惑しはじめている。家の喪失は、疑いもしなかった「帰還」のディスクールの根底を揺るがせたからだ。中心から周縁へと赴いたはずの旅人は、もっとも隔絶された「辺境」で傍若無人のツーリストたちに遭遇してエキゾティックな物語を見失った。落胆して家へ帰りついたはずの彼らは、そこがあるときから別な世界からやってくる移民と総称される人々の意識の果てにひろがるディアスポラの領域であったことを逆に発見した。世界の中心が別な世界の周縁となり、「第一世界」の核心に「第三世界」の楔が打ち込まれようとしている……。

(今福龍太「遠い挿話」より)