ズミ の山 12 月 3 週 (5)
★今日ほとんどの人々は(感)   池新  
 【1】今日ほとんどの人々は、民主主義と市場経済、すなわち資本主義のことを、まるで兄弟であるかのように最も自然なぺアとして語っている。【2】ほぼ同時に産業資本主義と代表制民主主義が世界の隅々まで広がったために、この経済と政治の二つのシステムは完全に調和して共存している、という錯覚を作り出してしまったのかもしれない。
 【3】しかし、蓋をあけて中を見てみれば、民主主義と資本主義の中核をなす価値観が、それぞれ非常に異なることは明らかではないか。民主主義は極端な平等を肯定している。【4】つまり、いかに頭が良くても悪くても、勤勉でも怠慢でも、博識でも無知でも、一人一票なのである。社会への貢献に関係なく、選挙の日には、だれもが同じ「一票」をもつのである。【5】歴史的に、この極端な平等のシステムを擁護する支配者はほとんどいなかった。今われわれはあらゆる人に一票を与えている。【6】知性、富、あるいは社会における影響力とは無関係にである。そのようなシステムの恩恵について、かつてのジュリアス・シーザーを説得しようとしたら、どんなことになるだろう。
 【7】一方、資本主義は、極端な不平等を肯定している。経済収益の差はインセンティブの構造を作り出し、それによってだれもが働き続け、すぐ先の未来に投資し続ける。不平等は、健全な資本主義に必要な競争をあおる。【8】市場経済では、富はさらに富をもたらし、貧困はさらに貧困をもたらす。なぜなら、人的物的資産への投資――故に将来的な所得――は、現在の所得によって左右されるからだ。資本主義そのものには、平等化のメカニズムは組み込まれていない。【9】経済的適者は経済的不能者を絶滅させると考えられている。実は、「適者生存」という言葉は、一九世紀の経済学者ハーバード・スぺンサーが作り出し、チャールズ・ダーウィンが進化論を説明するために借用したものだ。【0】一九世紀の資本主義についての厳しい見解では、経済的飢餓は、この経済システムにおいて積極的な役割を果たしていた。資本主義は実は民主主義など必要ないのであり、それは一九世紀のアメリカに見られたように、奴隷制と容易に共存することができるのである。∵
 民主主義と資本主義は、基本的な次元で正反対である。基本的価値が異なるにもかかわらず、資本主義と民主主義の共存を可能にしたのは、先にもふれたように社会福祉と教育への公共投資である。マルクスは、これらの二つの要素、特に公共教育が、近代社会を強固なものにすることを予知していなかった。
 民主的な資本主義国では、国家が市場での結果を平等化するための措置(たとえば、累進税など)をとり、必需品の取得を助ける(たとえば、住宅ローンに対する特別税免除など)。もはや市場に必要とされなくなった人には、国家は年金、ヘルスケア、失業保険などの形で援助を提供する。そして、国家は人々が売りものになる技能、すなわち公共教育を習得するのを助け、そこそこの生活の糧を得られるようにする。(中略)
 このように、二〇世紀のほとんどを通じて、民主主義と資本主義は、相互に緊張はあるが、比較的安定したバランスの中で共存することができた。第二次世界大戦後から一九七〇年代初期にかけての生産性が上昇し賃金が増大し国際経済が拡大し続けた資本主義の黄金時代には、この二つのシステムのチームワークは、すべての問題にとっての完璧な解決策であるかのように思われたかもしれない。
 しかし今日では、この調和に見すごすことのできない亀裂が現れている。民主主義的・資本主義的な社会システムの安定に対する圧力は増す一方で、社会福祉も社会投資も、グローバル経済、および国民経済の変化によって、脅威にさらされている。スカンジナビア諸国の経験からもわかるように、広範囲にわたる社会福祉制度は、理論上は理想的かもしれないが、実際問題として、維持するのが非常に難しいことがわかってきた。まず、所得税五〇パーセント、それに加えて、消費税二〇パーセント余りという形で、所得の半分をはるかに上回る額を政府に取られるというレベルまで税負担が増大し続ける。経済より急速に成長する社会福祉制度をいつまでも保つことは不可能であり、スカンジナビアでは、この試みは限界に達しているようだ。
 レスター・サロー著「経済探検未来への指針」より