ズミ2 の山 10 月 2 週 (5)
★化粧することや(感)   池新  
 【1】化粧することや食べることを始めとする、電車の中での人前での行為については、すでにいろいろ論じられている。一つは、若い人々は、他人に対して透明なバリヤのようなものを張り巡らして、自分の空間を遮断しているから、人中での化粧も食事も平気なのだという言い方。【2】つまり、彼らの前には他人はいるのだが、いないも同然だから見られても平気だというのだ。もう一つは、今の若い人々の間でプライベート空間についての考え方の変化が起こったという言い方。【3】つまり、自分の部屋が電車の中にそのまま移動したような感覚をもっているから、座席に坐りながら音楽を聞いたり、漫画を見たり、勉強をしたり、化粧をしたり、食事をしたりすることに何の抵抗もないのだそうだ。【4】彼らの間では、公的空間と私的空間の区別はもはや意味をもたない。二つは溶け合い、境界は不分明になり、自分のいるところはいつでもプライベート空間に変貌する。
 【5】なるほど、目の前には、隣には、他人はいるが、しかし彼らは単にそこに居合わせただけであって、そのことによって自分たちの行為が変わるわけではない。他人に迷惑さえかけなければ、化粧も食事もウォークマンもいいではないか。【6】自分の坐っている場所は、自分の空間、要するに、プライベート空間なのである。バリヤでもプライベート空間でも、自分たちの周囲には透明な幕が張り巡らされていて、そこには他人は入ることはできない。【7】だから、そばに他人がいても、その他人が彼らの関心をひくことはない。かくして、実に奇妙な光景が電車の中に現れることになる。
 だが、本当にそうだろうか。わたしはむしろ逆の事態が起こっているのではないかと考えている。【8】そこにあるのは、他人への無関心ではなく、逆に他人視線への強い欲望なのではないか。要するに、他人がいるのにその他人への心が働かないというのではなく、それは今までとは違う、自分を現す一つの方なのではないか。【9】実は、彼らは自分たちの行為をもっと見てもらいたいではないか。あれらの現象は、誰かに見られたい、人々に注目されたい、みなの中∵で目立ちたいという欲求が日常の場面にまで及んで、今や人々の根源的欲求になったということを示しているのではないだろうか。【0】電車の中で突飛な行動をしたり奇声を発したりすることで、人々の関心を買うといったことならば、別にどうということはない。私が奇妙な恐さを感じるのは、そこにそういう何か特別のことで見られたいというのではない欲求が働いているのではないかと思われる点なのだ。
 それは単に、見られたい、注目されたい、目立ちたいというのではなく、見られることでしか自分の存在を確認することができないというあり方、誰かに見てもらわないと何もできないし、見てもらわないと困るといったような欲求の切実さである。しかもそれが反復的な日常の基本動作にまで及んでいるという事態にこれまでとは違う恐さがある。だからこそ、今までは家の中で行われていた日常のありふれた行為が人前に現れることになったのではないか。私はこの日常のありふれた行為の出現に気持の悪さを感じる。朝食をとることや、化粧をしたりすることは、顔を洗ったり、歯をみがいたりすることと同様に、家の中での行為だった。日常を支える基本的行為は、誰にとってもありふれたもので、それゆえ人目を引くものではない。しかし、だからこそ、その行為は自分の生を作る自明な繰り返しとして家の中の生活習慣であり続けた。そのような日常の生活習慣は、他人に関わる行為ではなく、自分自身に関わること、自分自身の世話をすることとして、自分の生活の基本になっている。それは他人に見られるからするのではなく、自分が自分のために自らするのである。
 この基本が壊れつつあるのではないか。自分の世話が自分でできなくなっているのではないか。睡眠、排泄、洗顔、歯磨き、食事などを始め、日常生活の細部に渡って、自分が自分の生活を配慮すること、つまり、自己への配慮が崩れ、それさえも他人による支えが必要なのだとしたら、これはほとんど親という他人の配慮のもとでしか生存できない子供の世界ということになるのではないか。
(庭田茂吉()「ミニマ・フィロソフィア」より)