タラ の山 5 月 4 週
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○自由な題名
○仕事をしたこと
★清書(せいしょ)

○あらためてわが日本語を
【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
 ぼくの友だちにも、たいていおじさんがいる。おじさんというのは、つまり両親の兄弟ということで、ぼくたちは、そのおじさんのオイ、女だったらメイということなのだそうだ。
 話をきいてみると、友だちのおじさんは、けっこういいおじさんだという。どこからどこまでいいおじさんというわけにはいかないが、あるおじさんは宿題を教えてくれる。あるおじさんはいっしょに動物園へつれていってくれる。あるおじさんはお小遣いをくれる。
 なかにはスポーツマンのおじさんがいて、そのおじさんは有名なスキーの選手なのだそうだ。ジャンプの名手で、全日本大会とかいうと、そのおじさんは一等か、二等か、まかりまちがっても三等になる。一等のときは新聞に写真がでる。三等のときだって、ちゃんと名まえだけはでる。
 そういうおじさんを持った友だちは、ほんとうに幸福だとぼくは思う。いっしょにスキー場へ行けば、どんなにか得意だろう。日本一か日本三の選手に、手をとってスキーを教えてもらえるからだ。
 けれども、友だちにきくと、実際はそんなことはないそうだ。スキーを教えてくれるなんて、とんでもない。そのおじさんは自分の練習にいそがしくて、オイやメイのことなんかかまっていられないそうだ。

(北杜夫「ぼくのおじさん」)∵
 【1】あらためてわが日本語をかえりみると、ただちに気付くのが「わたし」という一人称の多様さである。日本語ほど一人称代名詞に多くのバラエティを与えている言葉はほかにないのではあるまいか。【2】「わたくし」「わたし」に始まり、「ぼく」、「われ」、「おれ」、「自分」、「手前」、「うち」、「わし」、「それがし」、「吾が輩(はい)」、「当方」、「こちら」、「小生」、さらに「あっし」とか「あたい」とか、「わて」とか、「おいら」「こちとら」といったものまで加えれば、その数、ゆうに二十を越えるという。【3】英語やフランス語、ドイツ語などでは一人称の代名詞はそれぞれ、I、Je、Ichたった一語である。それに対して、日本語には、なぜこんなにたくさん「自分」をあらわす言葉があるのか。【4】それは日本人が他の民族よりも、ひと一倍「自分」に注意を払い、「自己」に深い関心を持っていることを語っているのだろうか。
 端的にいえばそうである。しかし、だからといって日本人に自我意識が強いとは必ずしもいえそうにない。【5】いや、むしろ欧米人に対して日本人は「自分」を主張することがずっとひかえめであり、日本では「個人」という意識、「我」の自覚が西欧人にくらべてかなり遅れているというのが「通説」になっている。【6】たしかに日本で個人主義が芽生えたのは、ようやく第二次大戦後といってもいい。そして現在に至っても「個」の意識はまだまだ希薄で、日本の社会全体は画一主義で貫かれている。画一主義とは没個性的ということであり、要するに「個」が「全体」に埋没してしまっている状況である。【7】それなのに、日本人が他民族よりも「自分」に注意を向け、つねに「自己」を意識しているといえるのだろうか。
 じつは日本人の自己意識は他民族、たとえば欧米人のそれとは質的に異なっているのである。ヨーロッパ人は自分というものを、実体的にとらえようとする。【8】自分というのは、それこそ、かけがえのない存在であり、独立した一個の人格と信じている。ヨーロッ∵パの哲学が古代ギリシアのむかしから一貫して求めてきたのは、ただひたすら「自分」というものの本質であった。【9】「なんじ自身を知れ!」というデルフォイの神託を哲学の出発点としたソクラテス、「われ思う、ゆえにわれ在り」を哲学の原点に据えたデカルト、「人間とは自分の存在を自覚した存在者だ」とするキルケゴール……ヨーロッパの哲学史は、「自分」という実体へ向かっての旅だったといってもよい。【0】
 それに対して日本人は自分という一個の人間を実体としてではなく、機能として考えてきた。個人はけっして単独に存在するのではない。つねに「世間」で他の多勢(おおぜい)の人たちとさまざまな人間関係のなかで生きるのだ――というのが日本人の人間観の前提だった。げんに「人間」という言葉自体がそうした考え方を正直に語っている。この言葉はいうまでもなく中国から受け入れた漢語であるが、この漢語の意味はもともと人間の世界、すなわち「世間」ということなのである。ところがそれが日本ではいつの間にか「人」そのものをあらわす言葉になった。ということは、日本人にとって「世間」も「人」も同一のように思われていたからにちがいない。日本人は社会と個人を一体化して考えてきたのである。
 日本人はヨーロッパ人のように自然と対決するのではなく、自然に親しみ、自然に同化することによって安らぎを得てきた。それと同じことが社会についてもいえる。日本人は欧米人のように個人を社会に対置することなく、世間と自分とをひとしなみに表象してきたのだ。「渡る世間に鬼はない」という諺がその一端を語っている。日本の自然が優しい山河であるように、日本の世間も――他民族の社会とくらべれば――結構、心安い社会だったからであろう。

 (森本哲郎『日本語 表と裏』)