チカラシバ2 の山 7 月 1 週 (5)
○私は、自分自身の体験を   池新  
 【1】私は、自分自身の体験を紹介しながら丸暗記についてだいぶ否定的なことを述べてきました。しかし、それは丸暗記でやっていくことの限界について指摘するのが目的で、暗記による知識の獲得そのものが「意味がない」と考えているわけではありません。【2】それどころか、いろいろなことが「わかる」ようになるベースを頭の中につくるときには、むしろ暗記は必要不可欠だと考えています。
 そもそも、何もない、まったくのゼロの状態から何かを生み出すことはできません。【3】物事を理解することも同じで、自分の中に理解するための必要な要素となるものを最低限持っていなければ、これを使ってテンプレートをつくっていくこともできません。【4】つまり、わからないものをわかるようにするにも、最低限必要となる知識を準備しておく必要があるということです。
 そのためには基礎的な知識は暗記によって頭の中に入れてしまうのです。【5】たとえば算数でいえば誰もが通る「九九」などはその代表でしょう。漢字や英単語だってマニアックなもの以外はともかく覚えておいたほうがいいに決まっています。
 【6】また、なかには子どものころ、「百人一首」や「いろはがるた」などを遊びを通じて覚えた人もいるでしょう。こうした昔の人が残した短い言葉の中には、生きていくうえでの知恵が凝縮されて残されています。【7】こういうものを持っているのが先人たちが積み重ねてきた文化の強みで、これを有効利用しない手はないのです。たとえ丸暗記をしたその時点ではきちんと意味が理解できなかったとしても、さまざまな経験を積む中で、理解は深まっていくでしょう。【8】そして、いずれはそこからさらに別の知見を導き出すというような、生きた知識として使えるという可能性があるのです。
 【9】これはまさに人間の営みそのものです。言語が誕生したといわれる約七万五〇〇〇年前の人といまの人を比べると、人類の知的∵能力という点では同じだという説があります。【0】しかし、持っている知識の量や深さに関しては、二〇〇〇年前の人に比べてもいまのほうが圧倒的に優れているといえます。これは得られた知見を後世に伝えるということを人間が昔から愚直に行ってきた成果で、こうした財産として私たちが持っているものを理解のための道具として使わない手はないのです。
 もちろん、こうした知識も誰かに言われるままの受け身の状態で覚えているうちは、それが伝えている知見を理解することはできないでしょう。でもとりあえず、最初はそれで構わないと思います。ここで重要なのは、「とりあえず自分の頭の中に備える」ことなのです。これをきちんとやっておけば、さまざまな経験をする中でいずれそのことがわかるようになるし、必要な状況が訪れたときにはその知見を使うことができるようになるというわけです。

(畑村洋太郎「畑村式「わかる」技術」(講談社現代新書)より)