チカラシバ2 の山 8 月 4 週 (5)
○人間は、だいたい思春期から   池新  
 【1】人間は、だいたい思春期から不機嫌というものを覚えていきます。いろいろ本を読んで考える、恋をして悩む、周囲の大人を煙たく感じる、自分は何かもっと違ったものになりたいと思う、そんな青春時代から不機嫌モードに入る。
【2】「うつむいて うつむくことで 君は生へと一歩踏み出す」
 これは、谷川俊太郎さんの『うつむく青年』という詩の一節です。うつむいて内省し、世の中に迎合しないで自分自身の世界を作り上げようとするのは、青年の特徴です。
 【3】また、尾崎豊に、『十五の夜』という歌があります。「盗んだバイクで走り出す」という歌詞は、十五歳という自立前の年齢のどうしようもない鬱屈を描いているから人の共感を呼ぶのです。【4】しかし、二十歳をすぎてもこれをやっていたら、社会からは受け入れられません。「二十五の夜」に「盗んだバイクで走り出」したら、それは単なる社会からの逸脱、犯罪にすぎません。
 【5】石川啄木は、「不来方(こずかた)の お城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」と詠みました。このような哀愁も、青年期には似合います。
 今の時代、人に気遣いのできる上機嫌な子どもを期待する向きは少ないと言えましょう。【6】成長期の精神的安定は求められていない。たとえば、中学生は親しい友だち同士だと仲がよくてご機嫌ですが、大人や、仲間以外の人に対しては不機嫌で、それもまた仕方ないという空気があります。反抗期だからです。【7】これは人間の成長に必要欠くべからざるもので、最近反抗期らしい反抗期がないのが心配されるという論を唱える方もいらっしゃいます。
 私自身は、反抗期というものは必ずしも必要ないと考えています。【8】基本的に人に気を遣うという能力は、「技」であり、ここ∵ろの習慣の問題です。そのこころの習慣を、ある時期全くなくしていいというのは、社会としておかしいと思うのです。
 【9】十代の精神的に葛藤の多い時期だからといって、人に対する気遣いをしなくていいということはありません。この習慣を忘れてなくしてしまっていいと許容してしまいますと、身についた「当たり散らし癖」や「むっとしたまま癖」はその人の中で続いてしまい、当たり前のものとなってしまうことが多いのです。【0】ここから脱却しようとすれば、もう一度「人に気を遣う」という技を、自分の中で作り直さないとなりません。
 現在は、子どもが不機嫌であっても無愛想であっても、積極的に直す努力をしない。たとえば、会話をしない状態も放置している。親が話しかけても何も答えない。「別に」「ふつう」がせいぜいです。「別に」「ふつう」というのは、会話を拒否した状態であり、拒否の意思表示です。それはいけないことだと、はっきりと指摘しなければならない。相手と関係を結びたくないという意思表示、会話に対してきちんと答えないという拒否状態が、成長にとって必要なことであるとは私は思わないのです。

(齋藤孝『上機嫌の作法』(角川書店))