ビワ の山 8 月 1 週 (5)
★「食べられる」か(感)   池新  
 【1】「食べられる」か「食べれる」か。「見られる」か「見れる」か。後者の用法は許されるか否か。あるいは、そんなことを公に議論すること自体、有益かどうか。
 いわゆる「ら抜き言葉」に関心が集まっている。
 【2】「どうして『ら抜き言葉』ばかり騒がれるのか」。中間報告をまとめた第二十期国語審議会の多くの委員は、不満げに語る。この二年間、多方面にわたる議論をしてきたのに、世間の受け止め方は、まるで「ら抜き言葉」しか取り上げてこなかったようだ、という不満である。
 【3】確かに報告は、敬語、方言問題から情報化をめぐるさまざまな問題、国際社会への対応など多岐にわたっている。ワープロと字体の関係なども焦眉の課題の一つだ。しかし、「ら抜き言葉」だけが際立って注目されてしまった。
 【4】こうした関心の偏りも含めて「ら抜き言葉」をめぐる落差と断絶自体が、国語問題の現状を反映していると見ることもできる。その意味で、これを国語審議会の役割を考えるきっかけにできるし、再考する契機にもできよう。
 【5】まず世代間の断絶が背景にある。若者の造語に旧世代はついていけない。同世代にしか通用しない隠語がまかり通っている。最近その断絶は深まるばかりだ。
 【6】「ぱんぴー」は普通の人。つまり、一般ピープルの略。「アンビリ」は英単語の略で「信じられない」と、若者言葉は日本語の境界さえ飛び越えていく。従来の尺度を超えた変容が進む。この現状をどう考えたらいいのか。
 【7】もともと地域による違いもある。「ら抜き言葉」が普通に使われている地域もある。方言の豊かさを尊重すると一方でいいながら、他方で、共通語の基準をたてに「認知しかねる」と断じられることに対する反発もあろう。
 【8】官民の意識の落差もある。世間で使われる言葉に「お上」が口を出すのはおかしい。そもそも政治家、官僚がまず美しく正確な日本語を学び、つかうべきだ。そうした発想からの反発もある。∵
 【9】根本には、言語観の違いも横たわっている。そもそも言葉は変化していくもの、流れにまかせれば、自然に淘汰されるだろう、という考え方に対して、美しい言語が文化の基礎であり、何らかの規範でもって維持していく必要がある、との考え方もある。
 【0】それはそれで結構なことだ。今回の国語審議会の報告は、あくまで議論の材料と考えたらいい。報告にもあるように、言葉遣いについて審議会は「ゆるやかな目安、よりどころ」を示すにとどまるべきだ、という立場をとっている。
 審議会の役割も変わってきた。当用漢字や常用漢字を決めるなど国語政策の中核を占めていた時代からは様変(さまが)わりしている。そうした規制を緩める方向に向いているというだけでなく、影響力自体も弱める方向に向かっている。当然のことだろう。
 それは、逆にいえば、教育、マスコミその他それぞれの現場で、自分たちの言葉を考えていかなければならない、ということだ。時代の変わり目で、私たちの言葉をどうしていくか、各自が考えていく必要があるということだ。
 その原点に戻って幅広い分野で論議を重ねることにしよう。

(朝日新聞社説による。表記等を改めたところがある)