ベニバナ の山 2 月 1 週 (5)
★イスラエルを旅していたとき(感)   池新  
【二番目の長文が課題の長文です。】
 【1】顔パスという言葉がある。「おれだ」「よし」という阿吽(あうん)の呼吸で、本来は規則として処理するところを当人どうしの個人的な関係で処理する方法である。なれ合いというと聞こえは悪いが、人間どうしの信頼(しんらい)関係を基礎(きそ)にしている点で最も確実な方法とも言える。【2】現代の法律や規則万能の社会では、このような人間の信頼(しんらい)関係に基づいた対応の仕方がもっと見直されてもよいのではないだろうか。
 そのための第一の方法は、相手を信じるだけの心の広さを持つことだ。【3】信頼(しんらい)するということは、相手に自分をゆだねることである。場合によっては、自分が大きな損失を被る(こうむ )こともある。それにもかかわらず、相手にすべてを任せて信頼(しんらい)する。そういう決意があるからこそ、相手も自分を信頼(しんらい)してくれる。【4】ジャン・バルジャンは、自分を信じてくれた老司教を裏切った。しかし、翌朝憲兵に連れられてきたジャンに、司教は、「その銀の食器は私が与え(あた )たものだ」と告げる。このように、相手の善なる心に対する絶対の信頼(しんらい)が、人間らしい心をもとにした社会の基礎(きそ)となる。
 【5】また、第二には、そのような人間どうしの信頼(しんらい)を支えるだけの社会の一体性を作ることだ。日本の社会の治安のよさは、世界の中でも際立っている。タクシーの中へ置き忘れた財布は、ほぼ確実に戻っ(もど )てくる。【6】日本人にとっては当たり前のように見えるこのようなことが、世界ではきわめて稀(まれ)なことなのである。そういう社会が築かれたのは、日本が一つの民族、一つの言語、一つの文化を持った社会だったからである。【7】異なる民族や文化と共存することはもちろん大切だが、それは日本の社会の中に異なる民族や文化が異質なまま広がっていいということではない。
 【8】法と正義に基づいて判断するという考えは、確かに人類が長い歴史の中で勝ち取ってきた権利だ。だからこそ、この考えは世界のどこでも通用するグローバルな思想となっている。しかし、そのグローバリズムは、日本のように互い(たが )の信頼(しんらい)関係をもとに成り立ってき∵た社会では、人間の心を持たない冷たい機械のような対応に見える。【9】大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)が日本人に人気があるのも、人間の心の温もりを裁き方の中に生かしたからだ。顔パスで交わされるものは、単なる顔ではなく、互い(たが )の善意への信頼(しんらい)なのである。【0】

(言葉の森長文作成委員会 Σ)∵
 【1】イスラエルを旅していたとき「ここでは全員一致の裁決は採用しないんですよ」と聞かされた。
 ユダヤ教の習慣だ、というような話だったが本当だろうか。根拠は、もう一つ、はっきりとしないけれど、事実ならば、なかなか興味深い。
 【2】みんなが賛成したときには、それをよしとしない、と言うのだから「そんなばかな」という声が、すぐさま聞こえてきそうな気もするが、この種の言い分は一つのパラドックスである。そのまま受け取ってはなるまい。どういう条件の中でそれを言っているのか、中身を吟味する必要がある。
 【3】まず第一に、みんなが一致できるような案件は、いちいち採決にかけないという事情があるだろう。答えが初めからわかっていることを、わざわざ問いただして全員一致を確認するケースは『ない』とは言わないが、あまり意味を持たない。【4】だから、ことさらに裁決を求めるのは、べつな考えがありそうなときであり、そうであるにもかかわらず、裁決の結果、全員一致というのは、ちょっと疑ってみたほうがよい、という教えだろう。
 たとえば、みんなが熟慮せず、いい加減に答えているケースがある。【5】また反対意見をすなおに言い表せない状況が、そこに伏在しているケースも少なからずありそうだ。さらにまた、あまりかんばしくない根まわしがおこなわれているケースもあるだろう。
 こういう事情を勘案すれば、一つのパラドックスとして「全員一致は採用せず」という理屈も理解できる。
 【6】たとえば日本相撲協会。ほとんどの重要議題が、全員一致でシャンシャンと決定すると聞いたことがあるけれど、私なんか根が疑い深くできているから、
 ――本当かいな――
 と首をかしげてしまう。異論を唱えると、いろいろまずいことが生じそうだから、形だけ一致させている、と、そういうことではないのか。
 【7】これが私の勘ちがいならば、まことにご同慶にたえないが、相撲協会はともかく、こうした気配を漂わせている全員一致も、世∵間にはけっしてまれではあるまい。わざわざ裁決を必要とするような案件ならば、一人や二人、異論を挟む者がいるほうが自然である。
 【8】お話変わって、テレビの時局討論会などを聞いていると、司会者が、「イエスかノーかで答えてください」と言っているのに、長々と意見を述べる論者が多い。と言うより、この設問に対して「イエス」あるいは「ノー」のひとことで答えたケースを、私は見たことがない。
 【9】この設問に対する答えは「イエス」か「ノー」か、あるいは「この問題にはイエスかノーかで答えられません」か、この三つしかないと思うのだが、現実には、どれでもないことが圧倒的に多いのである。
 【0】論者の本心を推測すれば、イエスかノーか答えはできているし、答えようと思えば答えられるのである。ただ、イエスの中にもいろいろなイエスがある。ノーの中にも同様にいろいろなノーがある。自分の心中を尋ねてみて百対ゼロの確信でイエスが言える場合もあれば、五十五対四十五でからくもイエスに傾いている場合もある。その内容はとても複雑だ。
 にもかかわらず、「イエス」と答えたとたん、すべて百対ゼロのイエスのような印象をふりまくことになってしまう。その誤解を避けるあまり、簡単に答えることができない。
 五十五対四十五の迷ったあげくのイエスと、四十五対五十五の迷ったあげくのノーとの間には、十ポイントのちがいしかない。僅少差と言ってよい。さらに言えば、五十五対四十五のイエスは、百対ゼロのイエスより、ずっと四十五対五十五のノーに近いのである。が、結果的には、それもイエスのグループにまとめられてしまう。
 この世にある、すべての困難な決断は、五十五対四十五と、四十五対五十五との間にある、と私は考えている。百対ゼロはおろか、七十対三十くらいの状況だって、判断は明々白々、悩むほどのことではない。五十五から四十五に至る僅少の差異を……わずかな迷いをどう考えるか、この世の悩みは、そこにある。こんなふうに考えてみると、全員一致を排除するパラドックスもおおいに意味を持つように思えてならない。 (阿刀田(あとうだ)高の文章による)