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  読書のすすめ
  出会いがいっぱい
   ももんが(みか)先生の学級新聞より
  受験勉強の思い出
   スフレ(なえ)先生の学級新聞から
  ひな祭り
   まあこ(ゆた)先生の学級新聞から
  「クソ」の話
   むり先生の学級新聞から
 
言葉の森新聞 2004年3月2週号 通算第830号
文責 中根克明(森川林)

読書のすすめ
 これは、2月の森川林(なね)の学級新聞に掲載した記事です。

 幼児期の読み聞かせは、普通言われる以上に重要な意味を持っています。文章の上手な子は、共通して幼児期によく読み聞かせをしてもらっています。幼児期の読み聞かせの影響は、かなり長期間にわたって子供の文章力や学力を支えているようです。ところが、この幼児期の読み聞かせは、親にとってはかなり苦痛を伴うものです。仕事にくたびれて、夜やっと休めるというときに、「三匹のヤギのガラガラドンは……」というお話を15分も続けるというのは、よほど強い忍耐力がないとできません。しかし、この幼児期の数年の苦労が、その後何十年にもわたって子供の力になることを考えると、ここはやはり親のいちばんの頑張りどころになると思います。
 小学校低学年の生徒が、絵本のような字の大きいハードカバーの本から、フォア文庫のような新書版サイズの字の小さな本に移るとき、自分が一回り大きくなったような気がするようです。しかし、自然にこういう移行が起こるわけではありません。多くの場合、字の小さな本をお母さんが読み聞かせしてあげているうちに、その面白さにひかれて自分も読んでみるということで読書の幅が広がります。
 その後、小学校高学年から中学生のころにかけて、それまでの児童向けの本から、もう少し大きい若者向けの文庫本に移る時期があります。これは、友達に薦められてというケースが多いようです。このときも、子供は自分が一回り大人になったような感じを持ちます。うちの子は、やはり、小学校高学年のころから、中村うさぎの「ゴクドー君漫遊記」などの本をよく読むようになりました。これは、高学年版「怪傑ゾロリ」のような本です。共通点は何しろ明るく面白いことで、私はこういう本が大好きですが、真面目な人は眉をしかめると思います。しかし、小学校の中高学年は、面白い本で読書量を蓄積するというのが大事です。この時期に、ためになる堅い真面目な本だけを読ませて、その結果読書の量全体が少なくなるというのはかえってよくありません。
 高校生になると、読書好きな子は、大人向けの本を読むようになります。私も昔、高校3年生になってから、「世界」「展望」「自由」などの堅い総合月刊誌を読むようになった記憶があります。現在の高校生は、あまり本を読まないようですが、少数の子は昔と同じように本の虫になって読んでいます。小学校のころいくら読書好きでも、それがそのまま高校生になってからの読書につながるわけではありません。多くの子は、中学受験や高校受験の忙しさに追われて読書から遠ざかり、そのまま読書をしなくなってしまうようです。中学生高校生の読書離れには、現在の中学・高校の部活のやりすぎにも大きな原因があるようです。
 大学生になってから、原典を読むようになるかどうかが読書生活の一つの大きな境目になると思います。高校時代の歴史や倫理の授業で題名だけ聞いている本を自分で実際に読んでみると、そこから大きな影響を受けます。古典にはなぜかそういう力があるようです。原典を読むと、入門書や教科書をいくら読んでも単なる知識としてしか身につかなかったことが、実際に自分の血や肉になってきます。私がそのことに気づいたのは、実は大学を卒業してからでした。
 卒業して1年か2年のうちに、サルトルの「存在と無」から始まって、ヘーゲルの「精神現象学」、ルソーの「社会契約論」、マルクスの「ドイツ・イデオロギー」「資本論」、ケインズの「雇用、利子、及び貨幣の一般理論」など、要するに高校時代の授業で名前だけ聞いていた本を次々に読みました。この読書の時期が自分の考えのベースになりました。
 だから、大学生になる人には、「古典を読むといいよ」とアドバイスをするようにしていますが、内心、その言葉に空しさも感じています。というのは、読書は求めるものがないときは読めないからです。一般教養のために「精神現象学」を読もうと思っても、数ページで挫折すると思います。この本はどのページのどこを開いても難しくてわけがわからないからです(笑)。しかし、内容はきわめて豊かです。
出会いがいっぱい
ももんが(みか)先生の学級新聞より
 やわらかな日差しに桃のつぼみもほころぶ季節となりました。もう春ですね。こんなにやさしい季節なのに、私たちは、三月になるとちょっぴりさみしい気持ちになります。どうしてでしょうか。
  「今までいつも一緒だった仲間や先生と、離れ離れになるから。」
そうか、それはさみしいですね。でも、別れの後には、新しい出会いが待っています。
  誰でも(そう、先生も)仲良しの人とは、一緒にいたいと思うものです。でも、いつも決まった人といるばかりというのも、何だかつまらない気もしますね。皆さんも気付いているように、私たちは一人一人、顔も身体つきも考え方も違っています。例えば、双子は、どうでしょう。そっくりだけど、やっぱり違います(笑)。そして、こんな風に違うからこそ、そこがまた良いところなのでしょう。だからこそ、人と人との出会いには、必ず「ワクワクとドキドキ」が、含まれているのですね。新しい出会いは、その数だけ多くのものの見方や考え方を、私たちに与えてくれるチャンスでもあるのです。三月は、そんな季節なのです。
私が両手をひろげても、
   お空はちっとも飛べないが、
   飛べる小鳥は私のように、
   地面(じべた)を速くは走れない。

   私がからだをゆすっても、
   きれいな音は出ないけど、
   あの鳴る鈴は私のように、
   たくさんな唄(うた)は知らないよ。

   鈴と、小鳥と、それから私、
   みんなちがって、みんないい。

  これは「私と小鳥と鈴と」という詩で、今から百年も前に生まれた金子みすゞという女性の作品です。自分らしさの大切さがよく伝わってきますね。私たちには一人一人、お互い違う欠点があります。だから、けんかも起こるけれど、お互い違う長所もあって、それで心が励まされたり、やさしい気持ちになれたり、自分にはない新鮮なものの見方に感動することもあるのですね。
  先生のクラスには、今月、卒業式を迎える六年生が二人います。(他の学年の生徒もクラス分けがあるかもしれません。)四月になって新学期が始まると、仲良しの友達となかなか会えなくなるかもしれません。これは、さみしいことだけれど、いつも一緒にいることと、本当の仲の良さとは、また別のものかもしれません。たまにしか会わなくても、心が通じ合う友達を、皆さんなら、きっともてると先生は思います。

  昔むかし(笑)、教育学部の学生だったみか先生は、大学で『道徳教育の研究』という授業を受けたことがあります。教えてくれたのは、宇佐美寛という先生(通称うさちゃん)。実は、みか先生は(ひねくれものなので)それまで「道徳」という言葉に、ちょっぴり抵抗感がありました。なんだか「〜してはならない」とか「〜しましょう」という言葉が、たくさん詰まった教科のように考えていたのです。だから「きっと、この授業もつまらないだろうなあ」と思っていたのですが、なんとおもしろくて、すぐに夢中になりました。どうしてかというと、それはね……。
  まず、この授業の教科書は、難しい生活指導の本ではなく、約三十冊もの実にさまざまな文学小説だったのです。皆さんもよく知っているように、私たちが心ひかれる本の中には、必ず魅力的な人が登場します。そして、私たちは「本を読む」ということを通して、その人の生きかたを間接的に体験することができるのです。皆さんも本を読んでいるうちに、自分がその本の中にいるような気持ちになったことがあるでしょう。本を読むことを通して、いろいろなものの見方や考え方に触れ、自分を豊かにしていくことの大切さを、宇佐美先生は、学生達にきっと伝えたかったのだろうと思います。こんな風に魅力的な人との出会いは、現実の世界だけではなく、小さな本の中にも隠れているのですね。

  先日、作文に「いろいろな人の隠れた長所を探したい」という話を書いてくれた生徒がいます。ぜひ皆さん、これから数え切れないくらいたくさんの人と出会ってください。そして、その人たちの「良いところ探しの達人」になってください。先生は四月から長いお休みをいただきますが、言葉の森で皆さんと出会えて、本当によかったと思っています。どうもありがとうございました!
受験勉強の思い出
スフレ(なえ)先生の学級新聞から
 今回は、大学の受験勉強のことを少し書こうかと思います。

 まだ小学生のみなさんは、「大学」と聞いてもピンと来ないことでしょう。でもまあ、大学受験から大学生までは、わたしにとってとても大事な期間だったので、その間に学んだことをみなさんに少しずつ伝えていけたらなぁ、と思っています。

 もともと、学習塾というものに無縁(むえん)なまま高校2年生まですごしてきた私だったのですが、さすがに受験の年になり、英語の大学に進むことに決めて、英語だけ習いに学習塾へ通い始めました。

 それまでは、英語をとても細かくとらえて、単語や熟語をおぼえたり、文法を勉強したり。あるいは、能動文(「わたしはボールをけりました」)を受動文(「ボールはわたしにけられました」)に変えたり。
 でもその先生は、生徒を一人あてると、その生徒に長い文章をずっと読ませました。はじめはよくわからずに授業を受けていたのですが、やがて、先生が教えようとしていたのは、文章の全体を理解することだったのだと、わかったのです。
 もちろん、それまでやってきた基礎の部分があってこそ、生きてくる方法なのですが、それがわかったことで、わたしの英語に対する考え方がガラッと変わってしまいました。

 結局、その塾は事情があって3ヶ月(夏休み前)でやめてしまいました。でも、その後は教科書を中心に、「たくさんの文章を読む」という勉強をひたすら続け、だんだん英語を読むことそのものよりも、内容を楽しめるようになってきたのです。(わからないところは学校の先生に聞けばよかったのです)

 その「内容を楽しむ」という姿勢は受験当日まで続きました。本番の試験の、長い文章を読んで設問に答える問題では、「幸せの黄色いハンカチ」という古い映画の話にとても似ていたために、目をうるませて感動しながら問題を解いていました。実に楽しく受験したことをよく覚えています。(もちろん、合格でした!)

 それでも猛勉強(もうべんきょう)した記憶はあまりないのですが、「読むこと」でずいぶんわたしの英語の力があがったように思います。それで大学まで受かっちゃうんですから、大した力です。

 英語の話なんだから関係ない、などということなかれ。わたしが受験をしたのは、英語を勉強し始めて約6年たったころ。みなさんが日本語を勉強し始めた期間とあまり変わりはないのではないですか?(ちょっと乱暴かな)
 言葉の勉強は英語も日本語も同じ。みなさんだって、たくさんの長文や本を楽しく読んでいけば、おのずと日本語の力がついてくるはずです。

 というわけで、みなさんは長文音読をがんばりましょう(笑)
ひな祭り
まあこ(ゆた)先生の学級新聞から
 3月3日はひな祭り。女の子の節句です。ひな人形を飾っているお宅もあると思います。

 小さい頃、うちにはひな人形がありませんでした。母と一緒に色紙でおだいり様とおひな様を作って飾りました。おやつにはミカンの缶詰を寒天で冷やし固めたゼリーを母が作ってくれました。透き通ったゼリーは春のおとずれを感じさせました。

 小学三年生ぐらいのとき、親戚のおばあさんが「おひな様がなくてはかわいそう」と、お嫁に行った娘さんのひな人形をくださいました。いただいた三段飾りのお人形は全体が色あせていて、お顔も流行のものとは違いました。今度は母が「古いものでかわいそう」と思ったようでしたが、当の私はそのおひな様が大好きでした。その姿を見て母も安心したと思います。

 色紙のおひな様でお祝いしてくれた母も、自分の娘さんのために買ったひな人形をくださったおばあさんも、女性の優しさに満ちあふれています。女の子の気持ちを自分のことのように考えてくれたのです。そういう心を受けとること、そして、おひな様を大切に扱ったり、お嫁さんになる日を夢見たりすることで、私自身も女の子であることを実感していました。

 先日、テレビで『「男らしく女らしくあるべき」と思っている人の割合が日本人は極端に低い』というデータを紹介していました。驚きました。「最高の贅沢は、アメリカに住み、中国料理を食べ、日本人を妻にすること」とまで言われていた日本人女性が「女らしさ」を否定するとは。

 女性は男性に見下されていた時代がありました。女性達は長年にわたり「男女平等」を訴え続けて権利を勝ち取ってきました。そういう歴史があるので、「女しく男らしく」と言うことが、男女差別の原因になると考える人もいるのかもしれません。しかし、憎むべきは「女のくせに」という考えであって、「女らしさ」とは違うと思います。

 女性にしかできないことがあります。子供を産むことや赤ちゃんに母乳を与えること。きめ細やかな気づかいなど。 女性だからできないことがあります。出産のときには仕事ができません。力仕事も不向きです。体力も男性ほどはありません。
 男性と女性はそれぞれの優れた面でおたがいのいたらぬ面をおぎない合いながら生きていくべきなのではないでしょうか。

 「女らしい」というのはほめ言葉です。わざわざアピールするものではなく、自然なしぐさの中に垣間見られるものです。女の子は自然とひな人形を大切に扱います。そういうことが「女らしさ」の原点だと思うのです。自信を持って女らしい女性になってください。もちろん男の子は堂々と男らしい男性に。

 街で手のひらにのるくらいの小さなうさぎのおひな様を見つけました。そういえば我が家には男の子しかいないので今ひとつ華やかさがない。「一つ買っちゃおう」。玄関に飾ってみると、なかなかいいです。かわいいです。ビーズの冠をのせた白うさぎが小さい春をもたらしました。
          
「クソ」の話
むり先生の学級新聞から
 今月はお父様、お母様に読んでもらいたい学級新聞です。

「クソの話」
 お父様お母様に読んでもらいたいと言いながら「クソの話」でごめんなさい。でも、まじめな話なんです。
 私には小学2年生の息子がいます。昨年から「言葉の森」で勉強を始めました。毎日の音読も最初はとても大変そうでしたが、最近は慣れてきたのか楽にできるようになってきました。ところが、先日の音読の際なんだか様子が変でした。そこで、「どうしたの?何か変なの?」と聞いてみたところ、「意味がさっぱりわからなかった。」というのです。
その時の長文は「ケヤキの山」3月1週「井坪先生は」という課題です。どのような内容だったかというと、ちょっと昔のいなかの小学校で、授業中にトイレに行きたくなった男の子が先生に「先生、クソ!」と言うのです。先生は「先生に向かってクソというやつがあるか。」とお説教を始めたので、男の子は気をつけの姿勢のまま全部出てしまったというお話です。(つづきもありますので、興味のあるかたはホームページでご覧ください)
 さて、いろいろうちの息子に何がわからなかったのか聞いてみて驚きました。なんと「クソ」という言葉の意味がわからなかったのです。彼にとって「クソ」という言葉はゲームなどをしている時に「くやしい」とか「チクショウ」という意味で使う言葉であって、「便、ウンチ」という意味はなかったのです。読んでみると確かに長文の前半には「トイレに行きたい」とか、「ウンチが出そう」などという記述はないので、どんどん息子は混乱していったらしいのです。私は決して息子をお上品に育てた覚えはないのですが、確かに家では「ウンチ」のことを「クソ」とは言ったことはないかもしれません。「ほら、道に犬のクソが落ちているから気をつけなさい。」とか「車に鳥のクソがついちゃったわ。」なんて今のお母様はあまり言わないのではないでしょうか。
 この件がなければ、私は息子が「クソ」を知らないなんてずっと気づかなかったかもしれません。まぁ、「クソ」の本来の意味はそんなに重要なものでもないでしょう。けれど、とても楽しい音読の時間をすごすことができました。
 音読の短い時間は子どもの勉強のためだけの時間ではないかもしれません。「言葉の森」の長文には日常生活ではなかなか話題に登ることのない様々な要素がつまっています。音読の時間はお子さんにお話を聞かせてもらっている時間と考えて、そこからいろいろな会話を楽しんでみてはどうでしょう。音読に対するお子さんの意欲も増すのではないかと思います。また、高学年になるとなかなか親の前で音読はしないかもしれませんが、作文を書く上で身近な大人の話はとても大切ですから、課題集が届いたら積極的に長文を読んで折に触れ話題に取り上げてみてはどうでしょうか。
 
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