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  父母の広場から
  授業参観で感じたことから(しろくま/いのこ先生)
  読書の秋(スピカ/かも先生)
  チャレンジ(まあこ/ゆた先生)
 
言葉の森新聞 2004年11月3週号 通算第863号
文責 中根克明(森川林)

父母の広場から
自習の成果が生活の中に(幼長父母)
 最初の頃は、字を書くことも大変でしたが、最近は随分はやく書けるようになりました。また、日頃の自習の成果が毎日の生活の中にでてくるようになりました。ミミズをみつけては、長文の内容を口にしたり、暑い昼間には、「空気って〜」と空気の説明をしだしたり、雲をながめては、「雲はどうしてうごいていくんだったっけ?〜」といった具合に。。。
 この頃の子供はスポンジみたいな頭をしていて、うらやましい限りです。
 今後とも楽しく続けられたらいいな!と思っております。
長文を通して世界を認識(教室より)
 人間は言葉を通して世界を認識しています。言葉が豊かな子供の見る世界は、その言葉に応じて豊かです。
 長文音読や短文暗唱は、言葉を豊かにするきっかけになります。同じ文章を何度も繰り返し読んでいると、その文章が自分自身の言葉になります。
 
 今後は、長文音読をもとに、家族で話をする時間をとっていくとよいと思います。夕飯のあとなどに、子供に長文を読ませ、その長文を話の肴(さかな)に、お父さんやお母さんが似た話をするという方法です。
 例えば、ミミズの長文を子供が読んだら、お父さんが、「そういえば、昔はミミズで魚を釣りに行ったなあ」と話題を広げていきます。お母さんが、「わあ、面白そう」などと合いの手を入れると、子供が、「じゃあ、今度、ミミズで魚釣りに行こう」などと話が進むかもしれません。
 気楽な対話なので、いくら脱線してもいいのです。毎週、こういう話をしていると、時にかなり深い話に発展する場面も出てきます。
 子供の言葉を豊かにするのは、読書と対話です。読書の大切さに比べると、対話の大切さは見過ごされがちですが、実は読書と同じ以上の効果があります。
 家族の対話の中で育った子は、成長して自分が親になったときにも同じように子供を対話の中で育てるようになると思います。3世代が同居していれば、孫が長文を読んで、両親と祖父母がそれについて話をするという情景も出てくると思います。これは、テレビを中心に家族が単なる観客になって過ごしている家庭とは対極にあるものです。
 家族の対話を続けるための原則は、決めたとおりに実行することです。家族ですから、ともすればなれあいで例外を作りたくなることがあります。例えば、両親がともに多忙で、子供もあまり乗り気でないときなど、うやむやのうちにやめてしまおうかという日も出てきます。しかし、一日でもこういう例外を作ると、その後の継続は急に困難になります。休む場合は、「今日はこういう理由だから休むよ」と子供に理屈をはっきり伝えることが大切です。しかし、どんなに多忙でも病気中でも(笑)10分ぐらいの時間は取れるはずですから、短い時間ではあっても決めたとおりに続けるというのがいちばんいいやり方です。
作文検定(小3父母)
小学生新聞の広告を見て、ふと思いたって入会したのですが、その教室が作文検定の事務局(?)、組織委員会(?)と知り、喜んでおります。
作検(作文検定)がYahooの上位に(教室より)
 言葉の森は、作文を指導する機関で、作文検定は、作文を評価する機関という位置づけです。指導の機関と検定の機関が同じだと(ほかにも作文を指導する機関があった場合に)フェアではないので、検定機関は言葉の森から独立した組織にしました。
 作検(作文検定)はまだ有名ではありませんが、YahooやGoogleで検索すると上位に出てきます。将来は、日本を代表する文章力検定にしたいと思っています。また、作文検定を通して、日本に作文文化を作るというのが将来の目標です。
 作文検定は、まだ団体受検の機会しかありませんが、個人受検もできるように早急に体制を作っているところです。
作文のコツをつかみ上達している(小6父母)
 入会して1ヶ月余りですが、子供二人が作文のコツをつかみ上達して来ているのが手に取るように分かり、非常にうれしく思っております(二人とも、もともと作文は好きなほうでした)。パソコンでの投稿はどんなものかな?と思っていたのですが、森リンでの点数を意識して頑張りが出てきているようです。もちろん先生が毎回褒めてくださるお電話もとてもやる気を出す効果が大きいです。ありがとうございます。
 
目標があるとがんばる(教室より)
 子供たちは、目標がはっきりしているとがんばるようです。
 言葉の森の指導の特徴は、何をどう書くかというおおまかな方向が示されていることです。子供たちはその課題に沿って、内容をふくらませていきます。
 また、森リンによる採点は、人間の採点とは違い、客観的な評価がそのまま出てきます。作文の評価というと、ともすればあいまいさが伴いがちですが、成長途上の子供たちはあいまいなものが嫌いです。よい結果であれ悪い結果であれ、正確に結果が出ることが書く意欲につながります。
 電話による指導は、子供たちの反応を見ながらの個別指導なので、具体的なアドバイスができます。また、言葉の森の講師は、直す指導ではなく、よいところを褒める指導を中心にしているので、どの子も電話を楽しみにしているようです。

 今後の勉強で大事なことは、実力をつけることです。
 何の習い事でも、初めのうちは新鮮な気持ちがあるので意欲的に取り組みますが、そのうちに飽きる時期が来ます。その時期に入る前までに、長文音読と読書で実力をしっかり蓄えておけば、飽きるよりも先に得意意識ができるので、長期間続けていくことができます。
接続語について(小3父母)
 低学年の場合、接続語に迷うようです。
 表にしてあると、「次はこれを使ってみよう。」と、わかりやすいかもしれません。
会話の中にことわざやたとえを(教室より)
 接続語は、考えを引き出す働きがあります。「どうしてかというと」という言葉を使うと、自然にその理由を考えるようになります。「つまり」という言葉を使うと、よりわかりやすく書こうという意識が働きます。
 ただし、小学校低学年のうちは、あまり勉強的な形にするよりも、日常的な読書や対話の中で豊かな日本語に接する時間を増やしていく方が効果があります。親子の会話などでも、折に触れてことわざやたとえを盛り込んでいくといいと思います。
授業参観で感じたことから(しろくま/いのこ先生)
 今回は、小学校低学年の授業参観で感じたことをご紹介いたします。
二年生ぐらいになると、習う漢字の数もだいぶ増えてきます。その日の授業では、新しい漢字を使った言葉をみんなでさがしてみるというテーマで始まりました。
「歌」という漢字では、「校歌」「賛美歌」「演歌」などなど、みんな元気な声で口々に自分の知っている言葉を言っています。「歌集」「歌合戦」なども出てきました。
「うーん。なるほど。訓読みも出てきたか。」
私は、興味津々で聞いていました。
次は、「川」です。出てきた言葉は、「川上」「川下」「川の字になって寝る」など。これは、なかなか高度です。ふだんは、あまり使わない言葉ですね。発表していたのは、同じ男の子でした。その次の「食」では、またその男の子が「食卓」と発言します。食卓という言葉を、このクラスで何人の生徒が使っているでしょうか。日常会話では、「テーブル」で済ますところですが、日本語ではやはり「食卓」です。
語彙量の個人差というものがこの授業から見えてきました。低学年では、自分で読む本で覚える言葉には、限りがあります。語彙量を増やすには、やはり普段の親子でなるだけたくさんの言葉を使うことが重要です。
「○○ちゃん、キッチンのテーブルの上から、お皿をはこんでちょうだい。」
と言ったら、そのついでに、
「キッチンを日本語で言うとなんて言うか知ってる? じゃ、テーブルは?」とクイズのように話を進めてみましょう。これを続けていると、子供のほうから「他の言い方ある?」などと聞いてくるようになります。また、なるべくカタカナの言葉を使わずに、まず日本語の言い方をよく使うようにするというのも一つの方法です。最初は、すべてを漢字で書き表す必要はありません。習う漢字が増えるに連れて、そのうちにどんな漢字で書くかにまで興味を示すようになります。こうなれば、もう一石二鳥です。今の子供たちは、大人の私たちが考えているよりもはるかに語彙量が少ないので、高学年、中高生でも、この方法は有効です。何気ない会話の中で、少しずつ試してみてください。

 
読書の秋(スピカ/かも先生)

 読書の秋ですね。みなさんは今、どんな本を読んでいるでしょう。
 先日、あるサイトで、「学年別おすすめの本」といった内容の一覧表を見つけました。たまたま見たもので、ほかにも似た内容のものがゴマンとあると思うのですが、その中で、みなさんも読んだことがあるかもしれない『大どろぼうホッツェンプロッツ』という本が、「小学校高学年向き」と分類されていて、ちょっと意外に思ってしまいました。私の感覚では、まさに「中学年向き」とするのにぴったりで、低学年でも楽しめる本だと思っていたからです。このサイトの分類が特別にレベルを低めに設定しているのかと思って、ほかの本についても見てみたら、そうでもないようなのです。ほとんどが、私の感覚で、まあ妥当だと思えるところに落ち着いていました。
 このように、ある個人や、ある団体が、本をすすめるとき、あるいは本それ自体に「○○年向き」とか「●才から」などと書いてあったりするのは、そのすすめる人、団体、出版社などによってかたよりがあり、はっきり言って、あまり当てにならないものだなぁと思っています。実際、選ぶ人の好みや興味の対象、得意な分野などによって、読みやすい、読みにくいの違いはあるでしょう。出版社などは、単に漢字のレベルで決めているのかな、というようなところがあります。でも、いわゆる「大人の本」が読めるようになるまでの間は、多くの子ども、または親が本を選ぶときに、ある程度こういった表示を目安としているのも事実でしょう。
 私自身は、小学生のとき、この「○○向き」というのを必ずチェックし、自分より少し上の学年向きの本を選んでは喜んでいたものです。単純でした。(笑)
 ところで、こうやってある程度「○○向け」と、実際のレベル(自分にとっての)を比べていくと、だんだんと、自分にはどのくらいそれがあてはまるかがわかってくるようになります。今は、自分のためにこんなことを気にする必要はもちろんないので、もっぱら子どもの本を選ぶとき、一応全てチェックしていますが、見事に出版社別のクセまで覚えられるようになり、装丁の感じなどと合わせて選んで、ほとんど間違いがないようになりました。(なぜか自慢げ^^;)「岩波少年文庫の○○向きならぴったりだ」「ポプラ社文庫なら、2学年上で大丈夫」といった具合です。
 これが翻訳ものだと、また訳によってずいぶんと違う印象になります。私は、何社からも出ている「世界の名作」といった子どもの本を選ぶとき、同じ箇所を抜粋(ばっすい)して読み比べてみて選んでいますが、大体訳者の年齢が若い方を選ぶほうが読みやすいことが多いです。あと、外国語のダジャレや言葉遊びのようなものを、いかにうまく訳しているか。こういうことも概して(がいして)若い人のほうがセンスがありそうです。(少し話がそれますが、大塚勇三さんの訳の『長くつ下のピッピ』で、ピッピが「かけ算の九九」のことを言いまちがえて「竹さんのくつ」と言っているのですが、ほかの訳を確かめてみようと思って、長いことそのままでいます。本当は原作ではどう言っているのだろう、などと気になりつつ、まだわからないままです。誰か知っている人がいたら教えてください! ^^;)
 で、結局私が言いたいのは、「○○向け」は気にしないで、おもしろそうだと思った本は、どんどん読んでみよう! ということです。そうしているうちに、本当にそんな表示にとらわれずに、自分に合った本が選べるようになります。自分の年よりかなり上の学年向けのようなことが書いてあっても大丈夫。「読書百遍(ひゃっぺん)意自ずから通ず」は、真実です。興味を持った本には、臆せず(おくせず)何度でも挑戦しましょう。また逆に、自分より小さな子向けのようなことが書いてあっても大丈夫。読まないほうがましという本も……まあないことはないですが……、図書館や学校の図書室あたりならまずないと思います。本は何よりまず楽しいと思って読むことが一番。楽しい読書体験を積むと、難しい本にも挑戦する自信が持てます。そして、本当は難しい本ほど楽しみも深いということも理解できるようになります。
 さて、明日はどんな本を読みましょうか……^.^
 
チャレンジ(まあこ/ゆた先生)
先日、あるテレビ番組で、実業団バレーボールチームのアリー・セリンジャー監督がこんなことを言っていました。
「日本人は『できない』という言葉をよく使う。どうしていつも『できない』と言うのか。その原因は、家庭や小学校での教育にある。日本の子どもたちは常に完璧にしなさいと教えられる」

 日本人にとっての『できる』は「完璧にできる」であって、「まあまあできる」「すこしできる」「できるかもしれない」は『できない』ということなのですね。「できますか?」と聞かれたとき、完璧にできると言い切れることは少ないですから、『できない』と答えることになります。
 『できます』と答えられないのは、失敗を恐れるからです。失敗がはずかしいからです。

 もちろんそんな人ばかりではないでしょう。しかし実際に私は、以前そういう性格だったので、セリンジャー監督の言葉を聞いたとき、ズバリ言い当てられた、と思いました。そして原因が完璧を求める教育にあると気づかされて、根の深さにショックを受けました。現在、親として私も子どもに完璧を求めてしまうことがあるからです。

 私がいつも『できない』と答えている自分に気がついたのは、友人Mの結婚式に出席したときです。彼女は中学校の教師をしていて、学年主任の先生がお祝いのスピーチをしました。
「Mさんには感心させられます。私は学年主任という立場から、Mさんに仕事を頼むことがあります。授業や行事で忙しい時期であったり、また非常に困難な内容であったりして、勤務時間だけでなく家に持ち帰っても仕上がらないかもしれないほどのことを、頼むときもあります。無理ですと言われても仕方がないと思いながら、どうだろうと話を持ちかけると、必ずこういう返事が返ってきます。『大丈夫です』『やってみます』。 そしてMさんは誠心誠意取り組んで、期待以上の結果を出してくれるのです」

 「大丈夫です」「やってみます」。この言葉が心に響きました。いつも笑顔をたやさない彼女がさわやかにそう返事している姿が想像できます。当時まだ教師を始めて数年目だった彼女にとって、生やさしい仕事ではなかったはずです。その頑張りをベテランの先生は高く評価していました。
 そのとき、私は「大丈夫です」「やってみます」なんて言ったことがあっただろうか。私だったら言い訳の一つもしてのがれようとするかもしれない、と思ったのです。そして、とても情けなくなりました。

 失敗することがはずかしいのではなくて、チャレンジする前に『できない』と言って逃げてしまうことの方がはずかしい。やってみたらできるかもしれないのに。いや、きっとできるんだ。
 その日から、彼女のまねをして「大丈夫です」「やってみます」という返事を心がけるようになりました。

 実際にチャレンジしてみると、失敗したり、問題が勃発したりの連続です。しかし、ひとつひとつ対処して進めば、必ずゴールにたどり着きます。問題を解決するごとに喜びがあって、すんなり事が終わるよりもおもしろいぐらいです。そんなことがわかって、それまで失敗から逃げ続けていた時間がもったいなく思えてきました。もちろんゴールは良いことばかりではありません。でも、チャレンジするだけの価値はあります。

 セリンジャー監督はこうも言いました。
「失敗は大した問題ではない。失敗は人生の一部である」
 社会人になって問われるのは、うまくできることよりも、ピンチのときの対処能力です。失敗を乗りこえる経験は、対処能力をやしないます。成功ばかりでは身につかない人生の宝です。失敗を恐れず、チャレンジしていきましょう。
 
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